このホームページも、エヴァンゲリオン、イデオン、ガンダム、ボトムズ、宮崎アニメのページと作成しており、質量ともにばらつきは大きいものの、どれもとりあえず最低限のレベルにはなってきたと思っています。
そこで、こういう作品名を並べて考えてみると・・なんか、どれも、おおまかに言うと似ている話ですねー。
1.人類の進化(もしくは変質)に関係がある。
・進化レベルも形態も様々ですが、どれも、人類史的な作品ですね。(宮崎作品はマンガの風の谷のナウシカだけですが・・)。
(a)変化の契機
イデとの出会い、人類補完計画(ゼーレ)、ワイズマン(?)、宇宙への進出(?)、墓の番人(?)などなど・・
(B)変化の度合い
遺伝子操作、生命体としてのやり直し、ニュータイプ、神の後継者、などなど・・
(C)変化の意義
環境破壊の中で生き抜く、環境変化に合わせて生き抜く、エゴを消滅させる、生まれる前に還る(?)、みんなでひとつになる(?)などなど・・
2.戦いに大きな役割がある。
(A)防衛戦争
異星人との戦い、謎の生物との戦いなどなど・・
(B)権力闘争
独立戦争、理由もわからない戦争などなど・・
3.巨大ロボット(?)みたいなものがでてくる。
(A)意識の集合体として
イデオン、エヴァ
(B)神として
巨神兵、エヴァ
(C)単なる兵器として
(最初の)ガンダム、ボトムズ
さて、他にも、登場人物レベルで比較したり、パイロットの精神に注目したりすると、いろいろ一致したり、分類できたりする点もありそうですが、とりあえず今回はここでやめておきます。
さて逆に、テーマとして異なる点をいくつかあげてみます。
富野作品(とくにガンダム)・・個人と組織の問題、少年から大人への成長
宮崎作品(とくにマンガ版ナウシカ)・・生態系含めた生命への関心、見た人も登場人物も変化していくような浄化作用のある物語へのこだわり
庵野作品(とくにエヴァンゲリオン)・・先行アニメや特撮へのこだわり、自己不安(といっては失礼か?)内面へのこだわり
高橋作品(とくにボトムズ)・・純愛、特殊な環境設定の人間への関心(?これは違うか。考え直します)
こうしてみると、どの作品も、人類進化や神の問題を扱っているという共通項があります。
それでいながら、他方では、個別テーマとして、製作者自らが深い関心を持っている、アニメではない現実(現代社会)のテーマが組合わさっています・
共通項である人類進化や神の問題というのは、昔であれば、宗教が説明していたジャンルだと思うのですが、すごく人間にとって基本的なテーマで、どんな民族にも神話はありますし、本当は誰でも最も関心ある領域です。
そもそも人間とは何なのだろう・・どうなっていくんだろう・・という。
しかし、考えて解決を見るものでもありませんので、物語の背景程度の扱いとなります。ただ、どの作品もなんらかの形で遺伝子の問題を組み込んでいるのは、現代的なアプローチだと思います。
個別テーマは、製作者自身が現代社会の中で問題としている点なのですが、それらは、一般人から見てもやはり共通の問題ですので、深く描かれていれば、感銘を受けることになります。
さて、このように見てみると、ロボットアニメというのは、世界観を提示したり、考えたりする題材を与え、現実の問題への疑問も含み、かつ、エンターテイメント作品であるということで、古い意味での「文学」や「神話」、「伝説」、「昔話」などが担っていた役割を、そのまま引き継いでいるような気がします。
中世のキリスト教で言う、「黄金伝説」をはじめとする伝承や伝説、昔話。
日本で言うと、柳田國男の分類でいえば、「伝説」と「昔話」。
数千年以上に渡って人間にはそのようなものが常に必要でした。
エンターテイメントでありながら、世界と人間の意義と、自分の現実の悩みを映し出すような作品群。
ロボットアニメというのは、産業構造と組合わされた一時的な姿だと思いますが、似たような役割の物語は数千年以上前から必要であったし、今後も、ロボットアニメがなくなったとしても、同じ役割の物語は存在し続けるでしょう。
一方、それに比較すると、いわゆる「現代文学」が、どれほど根が浅い存在であるかわかろうというものです。
日本における歴史はたかだか100年ちょっと。
私は、文学というものは、おそらく産業レベルでは、いつまでも続かないと考えています。一部の愛好家の世界では残るでしょうが・・
実際、文学というものはすでになくなっているといった方がいい気がします。芥川賞作家は毎年生まれますが・・
少なくとも、社会的に何か影響があったかもしれないのは、三島由紀夫ぐらいが最後ではないでしょうか?(「作家」という言葉が、特殊な畏敬の念を含んでいたのは・・)
大江健三郎はノーベル文学賞もとったし、私もとても好きな時もありましたが、社会に何か影響があったことは、ないのではないでしょうか?(60年代~70年代などはあったのかも知れませんが)
文学が世間に何のインパクトも持ち得なくなったのは、いろいろな理由があると思います。
しかし、あまり誰も指摘していないけど本質的な話のひとつとして、単純に、能力のあるヒトが文学を目指さなくなったという事態もあると思います。
明治時代は、頭のよいヒトは、官僚か文学者にでもなるしかなかったため、国民のうち文科系で最も創造的で優秀なヒトが作家になっていたと思います。また、官僚も現実面で優秀なヒトが集まっていたでしょう。
しかし、20世紀後半の高度経済成長期には、優秀なヒトの頭脳は、基本的に企業に流れたと思います。
そして、ここ最近は、創作系のヒトはゲームやアニメにも流れているでしょう。
まあ、乱暴な議論ですが、選択肢が増えた結論として、文学に頭脳が集中していた時代はかなり遠くなってしまったとはいえると思います。
なお、同じことは官僚にも言えると思います。
かりに、いつの時代にも頭が良いヒトが同じ割合で存在するとすると、その人たちがどのジャンルに分布するかというのは、時代によって異なるはずです。
明治時代は、官僚系と文学系に集中していたのだと思います。
ロボットアニメを論じるつもりが、いつの間にか話がずれて文学批判になってしまいました。
何で自分は、ロボットアニメの評論・分析というマイナーな趣味ばかりやって、文学評論という、もっと世間体がよく(?)、賞もあるような方向を目指さないのだろうという個人的な問題意識が出てしまいました。
実際、小説読んで、評論書いたり、分析したり、他のヒトの評論や分析を読んだりしたくなったことがあるヒトは、ほとんどいないのではないでしょうか?
(個人的には、三島由紀夫の最後の4部作および、ウンベルト・エーコの作品については、真面目に評論もしくは分析をしたいという気が今でも時々起きますが)
問題産業とはいえ、アニメ作っているヒトの方が、「子供向けにこういうの作ってていいのか」とか、「こういうメッセージを伝えたい」とか「自分達の仕事の意義は?」とか考えている分、まだ何か考えている雰囲気を感じるというか・・
それに比べると、小説は自己満足と売名の度合いが高いというか・・まあ、個人仕事だから当たり前ですね。
キャラクター商品で売れるものでもないし・・
個人で作って、個人名で売るしかないのだから、苦しみの度合いも大きいでしょうね。売れなければ自己満足しかないし・・
アニメやゲーム製作のように会社単位で収益ベースで作るものと、個人ベースで知名度で作るものとでは、同じヒトが作ったとしても、全く別な作品が生まれるのかもしれません。
なんだか芥川賞批判(文学批判)する気もなくなってきて、意味不明な結論になってしまいましたが、今後、ロボットアニメの意義や問題点などを、不定期に書こうと思っています。
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