November 25, 2007

宮崎駿監督発言集 ルパン三世への愛と決別アップ

宮崎アニメのページのなかの、宮崎駿監督発言集をひさびさに更新しました。

今回のテーマは、ルパン三世への愛と決別です。

宮崎駿監督のルパン三世への発言をこれだけまとめたものは、あまり例がないのではないでしょうか?

もっとも、内容は、全文抜粋から一言抜粋、引用元も載せたり載せなかったりと、レベルもまちまちです。

また、いくつかまだ未掲載の文章もあるので、修正が必要ですが、まあ、とりあえずの第一弾ということで。

もし、宮崎駿監督の、ルパンへの熱く、複雑な思いが読んでいる人に伝われば、このコンテンツの役割は果たせたことになります。

また、これを読んでもそれが伝わらないようであれば、私の編集の問題ですので、再度、他の発言も含め、追加・修正を急がなくてはいけないと考えております。

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November 04, 2007

天空の城ラピュタのホームページ開設

以前から作る作るといっていた天空の城ラピュタのホームページですが、ようやく開設しました。

宮崎アニメのページの中の、天空の城 ラピュタのページです。

今回はとりあえず天空の城ラピュタ論という考察のみです。

今後、いろいろ他のコンテンツも増やしていきたいと思います。

天空の城 ラピュタ論では、ひとつのラピュタについての解釈を示しています。

純粋な娯楽作として作られた作品に対し、こういう視点で考えるというのは、製作側からすると不本意だろうと思いますし、悪い気もするのですが・・

まあ、ひとつの解釈ということで。

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October 26, 2007

山田康雄再生計画の顛末

ここ数ヶ月、仕事が大変忙しかったのですが、その中の1エピソードの紹介です。

私のところに、ある会社から連絡が入り、相談を受けました。

その会社は、音声をいろいろ合成したりする技術をもっていて、その技術を活用する用途についての相談でした。

ジャンルもある程度決まっていたのですが、私はその技術を見たとたん、「これは、ルパン三世の声を、もう一度山田康雄さんの声で再現するのに使えるのではないか・・?」と思いました。

既存の音声を集めて合成すれば、どんな声の再生も可能になりそうでした。

私は、早速、TV局もしくは番組制作会社にコネがありそうな人に相談し、アクセスルートを築きました。

そして内心、「今度のルパン三世スペシャルは、山田ルパン復活!という宣伝文句が踊るな・・視聴率も上がるだろう」とか、「いっそ、監督は宮崎駿監督が引退作品(?)としてやってくれたら面白いな。以前構想していたラムダ百体と戦うやつ。」「カリオストロの城の完結編もいいな」などなど妄想がふくらんだのでした。

そして、いよいよ、その技術を持つ会社に提案してみました。

すると、あまり反応がよくありません。

聞いてみると、以前にも別なアニメの声で実験したけどうまくいかなかったそうです。

何でも、言葉を自由に再現するには、ある種の発話パターンを一定数登録しておく必要があり、過去のセリフだけだと、うまくいかないそうです。

以前失敗したアニメは、どうも、私が推測するに、ドラえもんの声のようでした。(はっきりとは言っていませんでしたが・・)

こうして、私の山田ルパン復活計画は、2週間ほどで挫折したのでした。

でも、山田ルパンにしろ、ドラえもんにしろ、あれだけ多くのセリフが残っているのだから、丹念に調べれば、必要な発話パターンは全てとれるのではないかと思います。

ドラえもんはともかく、たまには、若い頃の山田ルパンの声で、新作ルパンを見たいのは、私だけではないでしょう(私だけか?)。

音声技術もまだまだ進化するでしょうし、私の計画は、密かに、まだまだ続くのでした。

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July 14, 2007

宮崎駿監督デザインのからくり時計について

6月は、ひさしぶりに仕事に専念しました。職を変えて数年、初めて自分が中心のプロジェクト。

ここで失敗したら後がありません。

かつては数百人に発注をしながらプロジェクトを推進していた自分が、今は部下ゼロ、外注ゼロでやらなくてはいけない状況になっているため、「赤い彗星も地に落ちたものだな・・」と一人で落ちぶれたシャアにひたりながら、休みもなく昼夜もなく働いた感じでした。

そのため、ホームページもブログも更新できませんでしたが、ようやくひと段落したため、今後はまた更新が再開できると思います。

働いた場所は、ほとんど汐留でした。

ある日、たまたまいつもと違うルートを歩いていると、そこは日テレ前。以前ハウルの動く城展をやっていたところに、巨大な時計が設置されていました。

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おおっ!ずいぶん前にジブリのホームページで宣伝していた宮崎駿監督製作の世界最大のからくり時計!いつの間に設置されていたのだろうと思いながら、見てみると、数時間ごとにからくりが動くようです。

会社に戻り、次の作動時間である18時5分前に備えるため、10分前には会社を出て日テレに向かいました。帰宅時間のためか、大勢のサラリーマンが同方向に歩いています。

これは、皆からくり時計の動きを見に行くのかな?と思っていると、いつの間にか人は少なくなり、からくり時計に着いた頃は、日本人は誰もいませんでした。

周りは外国人の観光客ばかり。すぐ側で働いている私が何も知らない間に、いつの間にか観光スポットになっていたようです。「ハウルの動く城展」の時のように、おそらく、土日は親子連れでいっぱいなのかもしれません。

からくり時計は、まさに宮崎駿ワールド全開といったものでした。

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わずか数分ですが、仕事疲れの合間に心がなごみます。

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職場のこんな近くにあるのなら、朝から晩まで見にこようかと考えて、時間を見ると、平日の最終回は夜の10時。

まさに、仕事疲れのサラリーマンのための時間です。

いつも、これを見て帰ることを目標に、さっさと仕事を切り上げようと思いました。

結局、プロジェクトも終盤だったこともあり、夜の10時にからくり時計を見に行くというシチュエーションはその後作れず、一方、プロジェクト終了後はもっと早く帰れるようになったため、夜10時に見に行くことはありませんでした。

でも、一度は朝から晩まで毎回からくり時計を見に行くような、忙しいなかにもゆとりがある(?)ワーキングスタイルを実践したいものだと、今でも思っています。

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(参考)日テレの説明読むと、構想5~6年で、2006年12月から開始したようです。どうりで、ずいぶん前から話聞いていたわりには、以前見に行ったときはなかったわけです。

公式本も出ているようですし、公式ページも面白いです。

          http://www.ntv.co.jp/tokei/

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February 11, 2007

宮崎アニメ論(天空の城ラピュタ論?)2

前回の続きで、まずは少年についてです。

コナンを筆頭とし、パズーを最後とする、あの、常に明るく前向きな少年のモデルは誰であったのか?

実は、これは意外に簡単で、宮崎駿監督自身の少年時代の、「影」です(ゲド戦記ふうの言い方をすれば)。

これについては、本人が、そう言っているインタビュー記事がありましたので、ホームページに書き直すさいは、ちゃんと出典含めて引用します。

もう少し具体的に書きますと、宮崎駿監督は、少年時代、非常に暗く、元気がなかったそうです。(ちなみにこれは、本人の認識。兄弟の認識では、結構元気だったようですが)

だからこそ、自分が少年像を描くさいに、「少年はこうあってほしい(自分もこうありたかった?)」というような、理想的な少年像になってしまうということでした。

明るくて、純粋で、前向きで、元気で、パワーがあって・・

さて、この話は、これで終わることもできるのですが、若干寄り道してみます。

宮崎駿監督が、自分の作品の主人公を、現実の自分自身の反動、理想像として、描いたということ。

これは、先ほどもちょっと書きましたが、ゲド戦記でいう「影」みたいなものだと言えるでしょう。

もしかすると、宮崎駿監督が、ゲド戦記にあれほど入れ込んでいた一因は、この「影」という設定に魅かれたのかもしれません。

さて、宮崎駿監督は、自分の息子の悟郎少年が、思春期に入る頃から、(誰でもあるように?)闇の部分を抱え始めたことに気づきました。

こうなると、自分の少年時代をベースに、反動としての理想的な少年像ばかり描いてもいられなくなります。

自分の子供が闇の部分を持ち始めた以上、むしろ、闇を抱えた少年を主人公としなくては、息子の指針にもならないだろうということです。

こうして、理想的な少年よりも、むしろ闇を抱え、それと対峙する少年像を作ることを考え始めました。

そこから、「呪われた運命の少年 アシタカ」という主人公のイメージが生まれます。

ところが、企画が「もののけ姫」として実現するまでに15年ほどかかってしまったために、悟郎少年もとっくに成人し、「呪われた少年」の理由についても、なんだか意味が不明となり、結果として、

宮崎駿監督コメント「不条理に呪われないと意味がないですよ。だって、アトピーになった少年とか、小児喘息になった子供とか、エイズになったとか、そういうことはこれからますます増えるでしょう。不条理なものですよ」

とインタビューで一般論として答えることになりました。

その後、今度は逆に悟郎監督が映画を作るさいには、「ゲド戦記」を選びます。

ここで注目すべきは、いきなり父親を刺し殺すという、「心の闇」全開の主人公を造形したところです。

これでは、駿監督が悟郎少年の闇に気づいた20年前から、思いのほか変化していなかったと言えるかもしれません。

この点は、父親が偉大すぎたためか、それとも、鈴木プロデューサーが自分で言っているように、最初にイベント持ってきたくて指示(アドバイス?)した要素が大きいのか、よくわかりませんが。

宮崎吾郎監督コメント「主人公の心の闇を強調するため、影を主人公としてみました。」

以上、宮崎駿監督と悟郎監督の「心の影」を軸に、なぜ駿監督作品の主人公はあんなに純真で理想的に明るく前向きなのに、悟郎監督の主人公がああいう「闇」だらけの人物になってしまったかという読解でもありました。

後で、ホームページでまとめなおすときには、もうちょっと論旨を明快にし、引用元も含めて書き直そうと思います。

とりあえず、上記の経緯について、もう少し知りたい方がいたら、私のホームページでは以下の2点を参照ください。

もののけ姫のページの、もののけ姫QA2「なぜアシタカは呪われなくてはならなかったのか」

ゲド戦記のページの、映画ゲド戦記FAQ1「2人のアレンはどういう関係なのか」

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February 02, 2007

近況、ブログの今後の方針、および宮崎アニメ論(ラピュタ論?)1

最近、体調を崩していたのと、仕事が忙しかったのがかさなり、ホームページの更新活動もブログも何もできませんでした。

とくに、年末年始に作ろうと思っていたエヴァ本が全く書けなかったことは、個人的にもがっかりでした。

これで私のエヴァ本出版計画もほぼ絶望的だなーと思いつつ、ともかく、何かしらホームページやブログを更新したいと考えています。

そこで、これまでのように、論文はホームページにアップ、ブログでは別のネタというやり方を変え、とりあえず書きたい内容をブログに書き溜め、完成したらホームページに反映するというやり方をとってみたいと思います。

そうすれば、比較的頻繁にブログはアップできるし、自分のモチベーション維持にいいのではないかという考えです。

というわけで、今回から、思いつくままに、論文の書き溜めを行ってみます。

とりあえず書籍等確認せずに記憶に基づいて殴り書きし、後でちゃんと調べてから、推敲し、ホームページに載せようという趣旨ですので、細かいミスは気にせず読み飛ばしておいていただければと思います(本当の勘違いもあるかもしれないので、ご指摘も歓迎です)

今回は、宮崎アニメ論、もしくは天空の城ラピュタのページを開設したら、そこのメインコンテンツになるであろう天空の城ラピュタ論です。(どっちにするかは、書きながら考えます)

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あの少女と少年のモデルは誰だったのか・・

かつての宮崎アニメには、純真で天真爛漫な少年と、可愛くて、でもどこか大人びた少女が常にセットであった。

ごく初期の「どうぶつ宝島」から始まり、「未来少年コナン」におけるコナンとラナ、「天空の城ラピュタ」におけるパズーとシータが代表的である。

彼らは、常にセットだった。

そして、理想的な少年・少女だった・・

しかし、ラピュタにおけるパズーとシータを最後に、その姿を消すことになる。

この論文では、以下の2点の探求をテーマとする。

1.あの少年と少女のモデルは誰であったのか

2.なぜ、ラピュタを最後に、彼らは消えたのか

・・以下、続く・・

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November 24, 2006

新ルパン三世の幻の宮崎作品「空飛ぶ銭湯」についての考察アップ

最近、いろいろあり、ホームページ、ブログとも更新が滞っていました。

何もしていなかったわけではなく、エヴァンゲリオンについては、出版社に送るためのエヴァ本を書いていたのですが、遅々として進まず・・・

ガンダムについては、いよいよ数日中に(?)、ターンエーガンダムのページが開設できそうです。

今後は、ホームページの進捗に限らず、ブログはブログでいろいろまた出来るだけ書いていこうと思います。

さて、今回アップしたのは、宮崎アニメのページのルパン三世についての部分です。

新ルパンにおける宮崎駿作品というのは、

・死の翼アルバトロス

・さらば愛しきルパンよ

の2作品しかないのですが、今回紹介および考察しているのは、幻の(?)、「空飛ぶ銭湯」です。

もっとも、わずかな情報に基づいて書いているだけなので、たいした内容はありません(いきなり言い訳モードです)・・

あまり期待せずに見てもらえればと思います。

ルパン三世のページの新ルパン三世における宮崎ルパン幻の作品「空飛ぶ銭湯」についての考察というコーナーです。

宮崎ルパンが好きな方が、想像をたくましくするための参考になればと思います。

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October 13, 2006

ヤマト、ガンダム、宮崎アニメ、エヴァンゲリオン、ゲド戦記における人種問題2

さて、前回に引き続き、アニメの人種問題の話です。

しかし、その前に、前回頂いたご指摘をもとに、宇宙戦艦ヤマトについて、若干話を整理しなおします。

まず、私が書いた前回の趣旨は、

大和を復活させてヤマトとし、日本人だけでデスラーと戦うというストーリーは、太平洋戦争の敗戦コンプレックスからきているように読みとれる。

ただし、西崎氏も松本氏も、そういう話を最初から作ろうとしていたわけではない。

ということでした。

それに対し、ご指摘いただいたのは、

1.デスラーなどは、白人は白人でも、アメリカというより、ナチスからきている。

2.ヤマト以前、おもちゃにおいては「大和」が人気アイテムであった。

ということでした。

これらのご指摘を踏まえて考え直してみるに、大和を復活させてヤマトとするというアイデアは、反米というよりは、単におもちゃを「大和」にかこつけて売ろうという、スポンサーサイドの意向だったのかもしれません。

また、全員日本人というアイデアも、思想的なものよりは、当時のウルトラマンや戦隊物のイメージに近い(基本的に日本人のみで地球を守る)のかもしれません。(つまり、おもちゃ屋さん的には、いつもと同じ自然な流れ。)

また、白人vs日本人という構図も、反米というよりは、むしろ、アメリカではなく日本こそが打倒ナチスという、正義の味方の役割をやれたら、かっこよかったんだけどなー・・という、当時の少年達の気持ちが反映されているのかもしれません。

また、ヤマトの「特攻」についても、もともとヤマトは初期の企画書でもほぼ全滅設定だったため、大和の特攻とはあまり関係ないのかもしれません。

ついでに言うと、テレサやスターシャのキャラも、松本氏のいつもの作品と通じるものがあり(メーテルやら千年女王やら)、モデルは奥さんとの説もあることから、それほど白人コンプレックスというわけではないのかもしれませんが・・

このへんは、まだ実態はわからないところもありますが、以上のような可能性もあるという前提で、次に進みたいと思います。(つまり、私が前回書いたのとは逆に、ヤマトに敗戦コンプレックスや欧米コンプレックスをあまり見ない解釈もありうるということです)

さて、次はガンダムです。

宇宙戦艦ヤマトに少しだけ関わり、西崎氏と喧嘩別れした富野氏は、「ヤマトをつぶせ!」という一念で、「機動戦士ガンダム」を作ります。

(注:このへんの詳細は、ガンダムのホワイトベースはなぜヤマトより強いと言い切れるのか?を参照ください。)

ここで、富野氏は、あたかも、日本人だらけであるヤマトに対するアンチテーゼであるかのように(?)、主要キャラから日本人を外しました。

ハヤト・コバヤシは日系ですが、柔道やったり背が低かったりと、ステレオタイプのかっこわるい(?)日本人となっていました。

また、主人公のアムロも、人種的に曖昧にみせていました(初期資料には漢字ネーミング版もありましたが・・)

そして、主要人物には黒人(リュウ)もいれようとしました。

つまり、白人、黒人、東洋人など混成チームでホワイトベースのクルーを構成することで、宇宙世紀の未来を表現しようとしたわけです。

この辺の意識はヤマトとは大きく異なり、スタートレック並みです。

推測ですが、スタートレック並に人種問題に配慮することで、ヤマトの設定の古さを、明確にしようという意志があったのではないでしょうか?

ところが、アニメにおける黒人というものは、当時、表現上もめる面がありました。(具体的には、サイボーグ009における黒人表現が抗議を受けたりした)

そこで、スポンサーが黒人をクルーにすることを嫌がり、結局、彼(リュウ・ホセイ)は、黒人ではなくなりました。

もっとも、それまでの日本の作品で、人種問題をそこまで意識している作品はあまりないため、普通の人は誰も気にとめませんでした。

ところが、一人だけ、ホワイトベースに黒人がいないことに疑問を呈し、突っ込みを入れた人がいました。

現スタジオジブリの高畑勲氏です。

彼は、いくら009の問題があるとはいえ、スペース・コロニーの時代に黒人が不在なのはおかしいと、ガンダムの設定の不備を指摘しました。

打倒西崎氏、打倒スタジオジブリを目指す富野監督としては、おそらく、これは、気にしないわけにはいかない指摘だったのでしょう。

ガンダムというのは、基本的に、高畑氏や宮崎氏、富野氏などが製作した「アルプスの少女ハイジ」と同じで、白人の金髪のお姫様(お嬢様)ものなのですが(セイラにしろ、F91のヒロイン(名まえ度忘れ)にしろ、カテジナにしろ、ディアナ様にしろ)、富野監督は、とにかく黒人も出さなくてはと思い続けたようです。

ついに、Vガンダムでは念願かなって、とうとう主要メンバー複数人の色を黒くし、そのことを誇らしげに語っていました。その中には、ヒロイン(?)のシャクティも含まれていました(インド系のイメージかな・・)。

そして、ターンエーガンダムにいたり、主人公の色までも黒系にすることになりました。

こうして、ガンダムの人種問題は、20年もかけて、いちおう、一区切りついたのでした。

以下、続く・・

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October 07, 2006

ヤマト、ガンダム、宮崎アニメ、エヴァンゲリオン、ゲド戦記における人種問題1

以前から考えていたテーマとして、日本のアニメの人種問題があります。

とりあえず、宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダム、宮崎アニメ、エヴァンゲリオン、ゲド戦記といったところを辿っていきます。

なぜ、この諸作品を選ぶかというと、世に与えた影響も大きいし、また、その人種問題への関わりもそれぞれ特徴的だからです。

また、製作者が様々なに絡み合っている点も興味のひとつです。

以下、いつもなら各監督の発言やその出所を明示しながら書くところですが、苦労して書いた挙句に最近のように著作権問題でつつかれるのも面倒なだけなので、発言は特に明示せず、主旨だけ書きます。

まず、宇宙戦艦ヤマトです。

私は、以前、このブログで、宇宙戦艦ヤマトの人員構成(全員日本人・・)を例に引きながら、アメリカ産のスタートレックと比較して書いたことがあります。(参考:宇宙戦艦ヤマト復活について

敗戦コンプレックスをそのまま出したヤマト(日本人vs白人。大和の復活など)と、第二次大戦の勝者も敗者も、冷戦時代の敵対者も含めて皆で一致団結する未来を描いたスタートレック(白人のほか、日系人、黒人女性、ロシア系など敢えて意図的に主要メンバーとした)を比較したものでした。

また、このような作品をあの時代に生み出したロデンベリー(彼は、何と結婚式はわざわざ日本にやってきて神式で行なった!!)の卓見と、アメリカへの恨みつらみをアニメで表現した西崎氏(たしか親が海軍士官)とを比較したものでした。

要するに、いつまでも敗戦コンプレックスを持ち、日本人で固めて大和を復活させ、敵と破壊戦争を行なうという完全懲悪の物語しか作れなかった日本のアニメと、世界一致で(宇宙人も一人、強烈なバルカン人がいたか・・)問題解決に当たらせ、人種問題、思想問題など様々な社会問題を比喩的に描いたスタートレックを比較し、日本のアニメのレベルについて嘆いたものでした。

しかし、しばらく後で、どうも自分のこの認識は間違っていたことに気づきました。

西崎氏がヤマトを軍国調にもっていったという非難は、実は松本零士氏の発言をそのまま信用したものだったのですが、西崎氏の作った初期プロットを見る限り、実は、宇宙船の乗組員は世界各国の当番制であり、たまたまこの年が日本人当番だったのでした。

また、スターシャやテレサに該当する女性はいません。(企画書は、宇宙戦艦ヤマトとさらば宇宙戦艦ヤマトをあわせたような内容です)

また、船も、旧日本海軍の戦艦大和とは無関係です。ただ単に日本人が当番のときの船だったからヤマトと名づけたように読みとれます。

設定的には、世界各国から乗り組み員を集めるプランを持っていた西崎氏と、軍国ものにするのに反対だった松本氏のアイデアが組み合わさる過程で、どうして全員日本人の乗組員で、旧日本軍海軍の大和に乗るという設定になったのでしょうか?

ちょっとわかりませんが、テレビ局の意向なのか、他の誰かの意向なのか、議論の結果なのか・・

ともかく、

・西崎氏の持っていたアイデア:世界各国の乗組員の中で、たまたま日本が当番だった。船も旧海軍の大和とは無関係。ただし、音楽やデザインは旧日本海軍調にしたい。

・松本氏の持っていたアイデア:一人、核になる女性で金髪白人系(??)の美女をおきたい。軍国調はイヤだ。

の2つが変な風に合わさり、結果として、

★日本人ばかりのメンバーで旧日本海軍の大和を復活させて侵略者と戦い、悪いのは白人男性(色は青だったり緑だったり)、でも白人美人女性が女神役。

という、なんか日本の敗戦コンプレックスをそのまま出したかのように読みとれる話となったのでした。

ともかく、いろいろな要素が加わった結果として、地球規模の話であっても日本人しか出てこず、美女役だけ白人という、人種問題という観点からするとかなりである話になってしまいました。

以下、次回に続く・・・

(参考)西崎氏の企画および現状については、西崎義展の手記を参照ください。

西崎氏はまだ獄中かもしれません。しかし、西崎氏の果たした役割の大きさを考えると、もっと光が当たるべきではないでしょうか?

富野監督の言葉を見ても、宮崎監督の言葉を見ても、宇宙戦艦ヤマト=西崎氏です。

ヤマト=松本氏になってしまった現状ですが、ちょっと不公平な感じもするので、西崎作品に焦点をあてたページを作ろうかという気もしています。(ヤマトのみならず、YAMATO2520にも焦点をあてたような)

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September 01, 2006

ゲド戦記のページ作成開始

先日、ゲド戦記の映画をようやく見てきました。

そこで、少し前から、ゲド戦記のホームページを作ってみました。

映画は、いい面もいろいろあるのですが、やはり、原作知らない人には理解できない(楽しめない)内容だと思います。製作者の想いは十分に表現されているのですが、観客がおいていかれているというか・・

やはり、まだ見ていない方は、もし時間があれば、原作を先に読むことをおすすめします。(もっとも、全巻のエピソードがひとつにまとまっているため、なかなか読むのも大変かもしれません・・)

ホームページの方では、とりあえず宮崎駿版の構想の復元(かなり無理ある)から始めてみました。

もっとも、別に映画版を批判するのが目的では全くなく、原作者からの批判をベースに、宮崎吾郎監督作品と、宮崎駿監督作品(と私が勝手に想像している話)の、どちらがどこまで原作者の批判に耐えられるかを考えることで、両者のいい点悪い点、さらにはいわゆる宮崎アニメの本質を考えるきっかけにできればなーというところです。

まあ、勝手に宮崎駿版の構想をイメージするのも、いろいろ問題あるでしょうから、今後は映画を見て話がわからなかった人向けの解説中心にしていくと思います。

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August 12, 2006

カリオストロの城論:「カリオストロの城の真実」完成!

ようやく、カリオストロの城論「カリオストロの城の真実」が完成しました。

宮崎アニメやスタジオジブリのページの、ルパン三世のページのなかの「カリオストロの城」のページ内です。

思えば、もともとカリオストロの城のページを作成したのは、この論文を書くためでした。

しかし、こんな短くて下手な論文とはいえ、結構書くのは手間と気合が必要なため、とりあえず序章だけ書いてほったらかしていました。(以前書いた序論と、完成した論文を見ると、若干整合性が悪いため、少し修正するかもしれません)

その後、アクセスも少ないため、やる気もうせていたのですが、とりあえず、完成までたどりつけて良かったです。

まだ、多少いろいろなコンテンツを追加する予定ですが、カリオストロの城のページのメインは完成です。

あとは、ルパン三世のコンテンツでいうと、宮崎駿監督とルパン三世の関係を包括的に扱った論文を追加すれば、ルパン三世のページのメインは完成です。

その後は、宮崎監督以外のルパン三世の話を追加していくかもしれません。

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August 10, 2006

ルパン三世「カリオストロの城」論 カリオストロの城の真実アップ開始

先月、ハウルの動く城がテレビ放映した影響で、ハウルの動く城のページを中心とした宮崎アニメやスタジオジブリのページのアクセス数が一時的に上昇しました。

ハウルの動く城の影響だけではなく、同じ、スタジオジブリのゲド戦記の影響もあるかもしれません。

そこで、宮崎アニメかジブリ系のコンテンツを作ろうという気がわきおこり、今回、ルパン三世のページのなかの「カリオストロの城」のページを更新しました。

「カリオストロの城」論:「カリオストロの城の真実」です。

ややおおげさな題名の論文ですが、まあ、ちょっと気をひきたかったということで・・・

まだ第二章までしか書いていませんので、そのうち第三章を書く予定です。

また、第一章は、アルセーヌ・ルパンのネタが多いので、つまらなければ、読み飛ばしてもらっても結構です。

急いで書いたため、文章がいろいろおかしいところがあるのですが、ヒマを見つけて直していきますので、ご容赦ください。

ちなみに、ゲド戦記は、まだ見にいけていません。

今週末行けるかなぁ・・来週末ぐらいかなぁ・・残念。

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June 17, 2006

正しい解釈について

これまで様々なアニメの解釈を行なってきました。
解釈にもいろいろあって、物語を理解するのに必要と思われる解釈もあれば、理論(フロイトやユングなどの精神分析系、構造分析などの文化人類学系など)を試す実験として行なった解釈もあり、なかには、遊び心だけで作った冗談のような解釈もあります。(例:作品批評の理論について)

解釈のポイントは、とにかく、ある視点でみれば、こういう理屈付けも可能なのではないか?という論理的一貫性です。

なかには、作者ですら絶対に考えてないことが明らかなケースでも、無理やりどこまで解釈可能か試した例もあります。

また、「エヴァンゲリオン」のように、監督自ら、「正解」や「真実」の存在を否定しているケースもあります。

「正解」がないと言われていても、なぜ人は(今回のケースでは私個人ですが)、解釈により論理的整合性を持った「真実」を探ろうとするのでしょうか?

現在公開中の映画「ダ・ヴィンチ・コード」は、典型的な、ひとつの謎の解釈です。(参照:ダ・ヴィンチ・コードのページ

キリストとマグダラのマリアは結婚していたのか?子供はいたのか?秘密結社は存在するのか?レオナルド・ダ・ヴィンチは作品にどういう意図を込めていたのか?そして、ルーヴルで起きた殺人事件の意味は?
これらの謎をすべて結びつけるとどういう解釈が生まれるのかが、作品のポイントとなっています。

それに対し、同じテンプル騎士団を扱ったミステリーである「フーコーの振り子」の著者であるウンベルト・エーコ(もともと記号論の学者です)は、人間の解釈の力そのものに疑問を呈しています。

テンプル騎士団の謎を扱った「フーコーの振り子」といい、黙示録のとおりに連続殺人事件が起こる「薔薇の名前」といい、その真のテーマは、ある事象に対して、無理やり論理的に「正しい」解釈を行なおうとする、人間の思考そのものを批判することを目指しているような気がします。

その意味で、数千年の謎を統一的に解釈しようとするダ・ヴィンチ・コードと、同じようなテーマの解釈を行なう「フーコーの振り子 」とは、同じく「謎」に対する「正しい解釈」をテーマとしながらも、正反対の視点にあるといえるでしょう。

数千年間に起きたAという事件(例:キリストの処刑)、その千年後に起きたBという事件(例:テンプル騎士団の処刑)、現代に起きたCという殺人事件に、論理的整合性を持った解釈を生むことは可能であるが、それが「真実」といえるのかどうか?

推理小説ふうに別な言い方をすると、同じ場所で黙示録に沿っておきたAという殺人事件とBという殺人事件と、Cという殺人事件。この3つは、関係するのかしないのか?(薔薇の名前はこっちの路線)

エーコの著書は、推理小説というジャンルそのものの否定を行ないながら、人間の論理的思考の限界を示しているような気がします。

私は、現実社会の解釈としては、ダ・ヴィンチ・コードのように、謎の一貫性を求めたり、私自身のアニメ解釈のように、作者が否定していてもとにかく一貫した論理性を作ろうとするものよりも、エーコのように、人間の解釈の限界性・・・つまり、いくら正しい解釈を作ろうと、所詮それは事実とは無関係なものでしかない、という認識の方が正しいと思います。

さて、数年前、ニューヨークのテロで、ビルが爆破されました。
あの事件は、どう解釈するのが正しいのでしょうか?

エーコは、ひとつの意見を発表しました。
それは、(よく覚えていないのですが)イスラム社会とキリスト社会の対決という解釈だったと思います。

私はがっかりしました。
あれほど、人間の「解釈」の限界を示し続けていたエーコが、いざ、現実の社会の解釈を行なったとたん、「イスラムVSキリスト教」もしくは「アラブ社会vs西洋文明社会」みたいな、とても多くくりな「解釈」しかできなかったことに、驚かされたのです。

イスラム教徒にしたって、アラブ世界にしたって、様々な人や立場があるだろうに、なぜ、ごく一部の組織の行為を、そこまで広げてひとくくりに解釈してしまえるのだろうか?と思いました。

日本の歴史でいうと、「なぜ日本は戦争したのか」という問いが同じような意味を持っていると思います。

そもそも、開戦当時における、「日本」とは誰なのか?
「日本」が戦争を開始したのか?その時の「日本」とは誰で、どのような「ロジック」で、戦争を開始したのか?

私自身が調べた範囲では、当時、誰ひとり、個人レベルでは、「ロジック」で戦争をやろうとした日本人はいませんでした。やっても負けることは誰でもわかっていました。それが、組織としての動きになった途端に、誰の意思でもない方向に動くことになりました。(戦争の発端参照)

このへんの解釈は、エーコよりも、むしろ、富野アニメの方が優れていると思います。
富野アニメでは、敵との戦いよりも、むしろ、仲間との内輪もめや、ライバル心が多く描かれます。
また、ひとつの国や民族が起こす戦いが、集団的なロジックではなく、個々人の様々な意識(嫉妬や、個人的な欲望や、利害など)の積み重ねにより、結果として、誰も意図していない方向に組織として展開していく様子がよくわかります。

これは、企業などで働いていると、誰でも実感できるのではないでしょうか?
ライバル会社打倒!などと考えている人はわずかで、ほとんどの場合、そこで人々の意思決定の原動力になっているのは、愛社精神などではなく、従業員ひとりひとりの、個人的な利害・損得・出世欲などです。

立派な企業が、時として意味不明な失敗を平気で行なうことの一因も、もしくはひとつの国家が失敗するときの一因も、同じことでしょう。

このように、組織が絡むと、「正しい解釈」は大変難しくなってきます。

「それはね・・でも、お父様のおっしゃりようは理想すぎます。組織そのもののもつ悪癖を知らなすぎます。」(小説版「ガンダムF91」より抜粋)

組織の意思決定をどのように解釈するか?

「組織と個人の軋轢を見上げる少年を通して人の意識の膠着性を見る」・・Zガンダムの企画書より

話かわって、富野アニメでは、常に、組織と個人のせめぎあいがテーマとなるのに、宮崎アニメでは、なぜ、組織はテーマとはならないのでしょうか?

宮崎アニメでは、主人公は、つねに、組織から外れています。
おそらく、宮崎駿監督のお父さんが、日本軍時代、上官に泣かれながらも戦争を拒否し、日本国内で工場長をやり、のうのうと、女遊びをしながら(?)暮らしていったことと関係があるような気がします。

日本国全体が、多数の死者を出しながら戦争の泥沼にはまり込み、地獄のような状態におかれるなかで、さっさとそれを放り出して、やりたいことをやっていた父親。

おそらく、宮崎監督にとって、父親の存在は、「戦争により一丸となった組織」のリアリティのなさを明示するとともに、組織から外れる生き方を示すヒントにもなっていたのではないでしょうか?

さて、話を戻しますが、人間の思考能力には限界があり、個人の集合体としての組織をイメージすることは難しいし、逆に、結果的には、組織としてどういう行動を行なったのかという理解の方が個人に目を向けるより、はるかに意味を持つ面は確かです。(戦争のように)・・・思考の欠陥①

もうひとつの人間の思考能力の特性として、無理やりにでもいくつかの事象に論理的な整合性をつけようという傾向があります。(ダ・ヴィンチ・コードや私のアニメ解釈のように)・・思考の欠陥②

この2つの思考の陥穽を通り抜け、なおかつ、事実の羅列以上に、事象の理解に有意義な貢献をなす理解というものができれば、それが、現状ではもっとも「正しい解釈」に近いのかなーと思いますが・・なかなか難しいですね。

たぶん、人間の思考の根本的な特徴に逆らうことになるのでしょう。

アニメ分析でも企業分析でも、小説や政治の分析でも、なんでもいいから、そういう解釈を見てみたいし、自分でもやってみたいのですが・・

経済学における、個人の欲望を関数化して、その集合体として市場の動きを捉える考え方など、アイデアとしては面白いのですが、あれはあれで現実を捉えるのには難しい方向に突っ走っている気がしますし・・

たぶん、個人に焦点をあてて組織を考えるという点では正しいのですが、無理やりにでも事象をモデル化して考えている点がまずいのかもしれません。(つまり、思考の欠陥①は数式モデルで突破したが、そのぶん、数式モデルで一般化され、思考の欠陥②にずっぽりとはまっているというか)

ロジックで謎を解明する伝統的な「推理小説」というジャンルや、事件の動機を重視する犯罪の「捜査方法」が、エーコが様々な作品を出した80年代から揺らぎ始め、かわりに「FBI心理分析官」や「羊たちの沈黙」のような、動機無しの連続殺人に注目が集まり、「解釈」よりも事実の結びつきの発掘(データマイニング)に焦点が移ったことは、90年代以降、(パソコンの高性能化に伴って)企業のマーケティング手法でデータマイニングが取り入れられていったこととも関係があるようなないような・・
ともかく、「犯罪」や「マーケティング」など現実社会においては、「解釈」では限界がある事象に対し、事実データの結びつきの方が、重要な分析結果をもたらす例がいろいろと登場してきているということでしょう。

ここまで書いていて思ったのですが、これ以上、解釈の理論を「解釈」してみても、あまり進展なさそうなので、今後は時々、アニメなり企業なりの具体例を用いながら、ひとつひとつ丹念に分析しながら、考えてみたいと思います。

(参考)今回取り上げた作品

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May 18, 2006

「もののけ姫」ページ開設

ここ、2~3週間、仕事が忙しく、一方では香港旅行などにも行っていたため、ブログ、ホームページともほとんど更新できませんでした。

香港では、いくつかガンダムネタを仕入れたため、それは別途報告したいと思います。(たいした話ではありませんが)

それはともかく、作成中の部分的なコンテンツのみアップしていた状態だった「もののけ姫」のページですが、とりあえず本日より、本公開とすることにしました。

本当は、「もののけ姫」のテレビ公開にあわせて作成したかったのですが・・

なぜ、「もののけ姫」のページ作成に手間取ったかというと、ひとつには、仕事が忙しくてという事情はあるのですが、もうひとつには、思ったより研究書やインタビュー記事が多く、整理しきれなかったという事情があります。

数ある宮崎アニメのなかでも、「もののけ姫」は、もっとも関連書籍が出版され、宮崎監督のインタビューが出回った作品でしょう。

最初のイメージでは、宮崎監督の発言をベースに、それへの反対意見や賛成意見など、いろいろな評論家や学者、ファンの意見、私自身の意見なども整理して載せたら面白いかなーと考えていたのですが、宮崎駿監督の一部の発言の整理だけで、かなり時間をくってしまいました。

現在アップしている内容は、当初想定していた「もののけ姫」ページのコンテンツイメージからすると、ごく一部です。

もっとも、「もののけ姫」の研究ページを読みたい人がそれほど多くいるとも思えないので、この後、どこまで真面目に作るかは、アクセス数を見ながらですが・・(その意味でもTV放映前に作りたかったんですよね・・一時的にアクセスが増えるので)

まあ、とりあえず今回は宮崎監督発言のなかの一部をまとめただけですが、そのうち、いろいろ突っ込んだネタや、個人的な評論・分析なども書いていきたいと思っておりますので、興味ある方はよろしくお願いします。

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February 14, 2006

ルパン三世のページの拡充

ここ2~3日かけて、ルパン三世のページのコンテンツをいろいろ増やしました。

ルパン三世のページの方では、とくに最終回「さらば愛しきルパンよ」を中心にすえています。宮崎駿監督による、映画化構想(百匹のラムダと闘う真剣なルパン!)も見たかったですねー。当然、ルパンはワルサーを一発も使わずに、この圧倒的な敵に立ち向かうはずだったでしょう・・

それから、カリオストロの城のページの方は、ようやく、何をテーマとしているのかわかるページになってきたと思います。

ようするに、クラリスの後日談では、どれも、クラリス王女説(?)をとっているのですが、シナリオ共同執筆者の山崎氏の構想に見られるように、クラリスはカリオストロ公国を捨てる可能性すらあるのです。

あとは、いよいよ、宮崎駿監督本人のコメントを分析していくメイン論文を残すのみとなりましたが、結構長文となりそうで、若干時間かかるかもしれません・・

さて、これらの最後の宮崎ルパンのコンテンツをまとめていて思うのですが、この時期のルパン(宮崎ルパン)の設定は、30代なかばなんですよね・・

ようするに、私も今同じ歳なんですよね。

私も、(宮崎版)ルパン三世のように、30もなかばになれば、金にも飽き、スリルにも飽き・・となりたかったところですが、残念ながらお金がなくて苦労して働いております。

それはともかく、30なかばにして、自分の楽しみよりも、子供(少女)を助けることに楽しみを見出しているのは、ようするに宮崎駿監督本人なんだと思います。

宮崎駿監督本人の一連の新ルパン批判にしても、キャラ設定の変更にしても、あまりにシンクロした結果というか・・

ともかく、宮崎ルパンのファンには楽しめるページになってきたと思います。

宮崎ルパンが嫌いな人には楽しめないページですが、これからいろいろコンテンツを追加する予定なので、宮崎ルパンが嫌いな人も宮崎ルパンが好きになるか、もしくは宮崎ルパン以外のコンテンツで楽しめるかするようなページにしたいと思います。

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February 06, 2006

ナウシカを考える辞典「風の谷について」アップ

本日は、ナウシカを考える辞典のページに、「風の谷について」をアップしました。

今までのコンテンツが、ナウシカの胸の話だけだったので、早いところもう少し固いテーマをアップしようという気持ちがありました(前回も結構固いテーマですが・・)

辞典ページに作成したコンテンツはこれで2つ目ですが、今後は「腐海」とか「王蟲」とか「神聖皇帝」とかいろいろ追加していって、それなりにボリュームがある、役立つ(?)ページにしたいなーと思っています。

もっとも、主要概念を一通り網羅するには、1年ぐらいかかるかもしれませんが・・

とりあえず、次回のアップは、ルパン3世のページの「カリオストロ論」を進めることを考えております。

ただし、書くのに難航すれば、ナウシカページのコンテンツを増やすか、富野作品ページのコンテンツを増やすかするかもしれません。

それにしても、同じ宮崎作品ページであっても、ナウシカページやルパンページの数分の一しかアクセスのないハウルページを見るにつけ、ハウルはナウシカやルパンに比較すると、随分マイナー(というか人気ない)作品だったのかなと考えてしまいます。

映画単体での観客動員数は多かったはずですが、魅力という点では弱かったのかもしれません。

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February 05, 2006

新ルパン最終回における宮崎駿監督の真意

おとといは金曜ロードショーでナウシカの映画をやっていました。私は、長らくナウシカはコミック版だけ見ていればいいやという気持ちになっており、DVDも買わず、映画を見るのは久しぶりだったのですが、改めてみると、いろいろ衝撃をうけました。

映画版は映画版の良さがあるというか、宮崎監督がナウシカで表現しようとしたもののうち、マンガでしか表現できなかったものと、アニメでしか表現できなかったものがそれぞれあるなーと思いました。

今後はそのへんを含めてナウシカのページを拡充したいと思います。

映画のテレビ放映とともに、ナウシカのページのアクセスは、一時的に数十倍に伸びたのですが、もっと内容あるページにしとけば良かったなぁと思いました。

さて、ホームページの進捗ですが、ルパン三世のページをいろいろアップしました。

カリオストロの城のページでは、ルパン・トーク・ルパンに収録されていたルパンとクラリスの再会譚の書き起こし。

ルパン3世のトップページの方では、主に新ルパン最終回における宮崎駿監督の意図についてです。

新ルパンにおける宮崎監督の意図は、新ルパンシリーズを憎んでいた宮崎駿監督が、最終回の監督になったことを利用して、見事に(?)新ルパンシリーズそのものを全否定するまでの経緯をおったものです。

宮崎監督「どんなドタバタでも、何か思い入れのタネがどこかにかくされた核としてないと、やっちゃいけないことも平気でやりだしてしまう。」

ルパンは時代に取り残されたは、宮崎駿監督が、新ルパンで最終回を製作するにあたり、なぜ自分の名前を隠したのかという意図についての本人の説明です。短い文章ですが、宮崎監督が書いた文章の中で、私が最も好きなもののひとつです。

宮崎監督「ルパンがほんとうに好きならとうに描くのをやめるべきですね。」

結局、ひとことで言うと、宮崎駿監督は、本当に、ルパンを愛し、シンクロしていたのだと思います。だからこそ、単なる人気コンテンツとしてルパンを作成することに耐えられなかったのでしょう。

また、気付いてみれば、新ルパンにおける宮崎作品では、ルパンは、常に世界平和のために、無償で、一度もワルサーを撃つことなく、誰一人殺すことなく戦っています。

これは、いわゆる「ルパン三世」の世界ではないことは、宮崎監督自身がよくわかっていたでしょう。

新ルパンにおける宮崎ルパンから、世界を救う少女であるナウシカまでは、密接につながっていることに改めて気付きました。

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February 01, 2006

風の谷のナウシカの基礎知識アップ

もともとルパン三世のページを今週はいろいろ更新する予定だったのですが、風の谷のナウシカのページのアクセスが最近増加していることに気付き、読む人がいる以上は内容あるページにしようと、取り急ぎ「風の谷のナウシカの基礎知識①」として、映画版とマンガ版の違い(製作過程を簡単にまとめたもの)をアップしました。

今週の金曜に日本テレビ系の金曜ロードショーで映画「風の谷のナウシカ」をやるようなので、それを見てナウシカに興味持った人が、インターネットを調べたとき、多少なりとも参考になればという意図です。

もっとも、当時宮崎監督が仕事がなかった点や、庵野監督が冬でも裸足にビーチサンダルで歩いていた点など、ナウシカの基礎知識というよりは、何か力点が偏った話になってしまいましたが・・

ともあれ、宮崎監督が世界的なビッグネームになってから、ナウシカの映画を見直すのも、いいものではないでしょうか?

当時の宮崎監督は失業状態だっただけでなく、いろいろ鬱屈していたようです。

その頃のインタビューなどみていても、個人名で評価されないことに対するあきらめや、やりきれなさみたいなものが感じられます。

大塚康生氏は、それを見て(?)、「ファンの皆さんは、この人にもっと作品を作らせろってテレビ局に言ってくれないと困る」みたく援護していたりします。

人間、努力すれば報われるものだなぁーなどと考えてしまいました。

ともかく、次回のアップは宮崎ルパンについてです。

謎の多い新ルパン最終回関連と、カリオストロの城関係の予定です。

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January 22, 2006

ルパン三世のページ開設

本日、宮崎アニメのページ内に、ルパン三世のページを開設しました。

ルパン三世は話も膨大にあり、ホームページもおそらくいっぱいあるのではないかと思うので、私は、特に宮崎作品をメインにしたページを作ろうと思います。

とりあえず最大のテーマは、カリオストロの城のページにおける論文「ルパンは、何故クラリスと再会できなかったか?」です。

ようするに「カリオストロの城」のあと、なぜ宮崎駿監督は続編を作らず、また、新ルパンの最終回を最後にルパンシリーズそのものから足を洗ってしまったのかということです。

そもそも名作「カリオストロの城」の内容は、本当にあれで良かったのかという、宮崎駿監督自身の悩みも含め、できるだけ宮崎駿監督の心理を丹念に追っていけたらなーと思っています。

論文そのものは、結構長くなりそうなので、とりあえず序論だけしかまだできていませんが、代わりにいろいろ資料も入れたので、(知らない方には)楽しめる内容になるのではないかと思います。

(もっとも、まだ内容はあまり無いページですが・・今後増えていきますのでよろしくお願いします)

なお、宮崎アニメページには、宮崎駿監督発言集として、「クラリスのような美少女は実在するか」もアップしましたので、あわせてお読みください。

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January 20, 2006

ナウシカを考える辞典アップ開始「ナウシカの胸の大きさについて」

ナウシカのページにおいて、新たなコンテンツとして、「ナウシカを考えるための辞典」というものを作成しました。

もともとは用語辞典を作るつもりだったのですが、いわゆる定義集みたいなものを作ること自体が、ナウシカの物語の思想にそぐわないような気がしたために、私の意見を書くことよりも、関連資料を集めて、読んだ人が人それぞれに考えるためのデータみたいな位置づけを目指そうと思います。

(といいながらも、自分の意見をいろいろ書いている気もしますが・・)

第一回は、「ナウシカの胸の大きさについて」です。

豊かなナウシカの世界を語るにあたり、よりによってそのネタか、という気は我ながらしたのですが・・

まあ、今後は結構難解で地味な(?)テーマが続出することになるため、最初ぐらいは読みやすいものをということで。

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January 17, 2006

ホームページの進捗(各種資料アップ)

今回は各種資料をアップしました。

まずはエヴァンゲリオンのページ及びスーパーロボット大戦のページの共有コンテンツとして、士牙剣さん提供によるクスハ主人公でのエヴァイベントを掲載しました。

士牙剣さん、ありがとうございます!

次に、宮崎アニメのページでは、風の谷のナウシカのページにおいて、庵野監督のクシャナ戦記製作を宮崎駿監督が拒絶したインタビューをアップしました。ものすごい拒絶っぷりが面白いです。

そういえば、エヴァンゲリオンのアスカの母親ネタがナウシカにおけるクシャナの母親ネタから来ているという指摘は当時から多かったものですが、クシャナ戦記を却下されてからエヴァンゲリオン製作に入るまでは時期的にほぼ連続していますね・・

それから、富野作品ページにおいては、イデオンのページのなかで、映画パンフより全文抜粋した「最終回のために」をアップしました。

最後にボトムズのページでもいろいろ準備していたのですが・・今回は間に合わず、また今度です。

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December 28, 2005

実在のナウシカについて

本日、ひさびさに風の谷のナウシカのページをアップしました。

ひとつは、ナウシカのファンなら皆すでに持っているだろうマンガ版の第一巻の宮崎監督の解説(ナウシカのこと)なのですが、あえてこれをアップしたのは、今回のメインであるエヴスリンの「ナウシカ」の解説になると思ったからです。(もちろん、アニメ版ナウシカしか知らない人もいるでしょうし)

エヴスリンの「ナウシカ」のアップは、辞典の一項目を写してまるまるアップという、若干問題ありそうな行為ではあるのですが、まあ、すでに絶版になっている書物でもあるので、いいのかな・・と(よくないかもしれませんが。出版社から抗議されたらやめます)

さて、エヴスリンの描いた実在のナウシカ(伝説の・・というべきか・・?)の物語は、正統なオデュッセウスの物語からみると単なる脇役なのですが、エヴスリンは、彼女に非常に思い入れをして、後に宮崎監督が風の谷のナウシカを作るきっかけとなりました。

このへん、エヴスリンがナウシカに着目した理由はよくわからないところもあるのですが、自分で調べた範囲はまた「実在のナウシカについて」という文でまとめます。

それはともかく、エヴスリンの「ナウシカ」は、宮崎アニメ全般を考える上でも非常に有効だと思っていまして、とくに、「カリオストロの城」を考えるさいには、重要だと思います。(宮崎監督が読んだのは、カリオストロ作成後らしいが)

このへんは、近日公開予定の「ルパン三世」(宮崎アニメページの中)ページでけっこう詳細に分析したいと思います。

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December 15, 2005

スタジオジブリの後継者問題

囚人022さんに教わり、ジブリの次回作(?)は宮崎駿監督の息子さんのゲド戦記になることを知りました。

ジブリのゲド戦記監督日誌 前口上 父は反対だった

いきなり、父(宮崎駿監督)が反対していたことを監督日誌のトップページに持ってこざるをえない、息子さん(宮崎吾朗監督)も、いろいろ大変だなーと思います。

いろいろ言われるだろうから、いっそマスコミを通さずにブログで直接語りたいというところでしょうか・・

偶然、最近「もののけ姫vsエヴァンゲリオン」を書いてジブリの後継者問題に思いをよせていた私としては、夢想していたのはその続きで・・

時に、西暦2015年(?)

場所 スタジオジブリ

アニメから(ジブリからも?)逃げていた(by宮崎監督の表現)庵野監督、ジブリの絶対絶命の危機に戻ってくる。

宮崎司令 「なぜ、ここにいる」

庵野氏 「ぼくにやらせてください!!ぼくは、ぼくは、エヴァンゲリオンの監督です!!」

という、19話「男の戦い」の名シーンがそのまま展開されることを期待していたのですが・・

作品は、もちろん、「風の谷のナウシカ2」。具体的には漫画版第7巻の映画化です。

間違いなく宮崎作品の最高傑作であり、かつ、庵野監督も、「宮さんがパンツを脱いだ」「自分にあっている」という主旨のことを言っているとおり、庵野監督の資質が最高に活かせる素材です。(ガイナックス社長の山賀氏も確かそういう主旨のことを言っていた)。

とくに、あの牧人とナウシカの対決あたりなんかが、庵野監督流にどう表現されるかがとても楽しみなのですが・・

作品としても、売上としても、アニメ史上の最高傑作になること間違いなしでしょう(と、妄想は続く)。

ジブリの後継者問題とは別に、庵野監督による「ナウシカ2」は是非見てみたいところです。

それはともかく、話を現実に戻して、宮崎吾郎監督の新作ですが、本人もおっしゃるとおり、作品を見せていただくしかないでしょう。

名前でそこそこ売るなら可能でしょうが、偉大な父を継ぐのは大変です。

「父の名を継ぐのはつらい」→って、これは富野監督の逆襲のシャアでした。

ともかく、できるだけ先入観を廃し、父の名と比較した過小評価も過大評価もせずに、作品を見るようにしたいと思います。

 

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December 12, 2005

ハウルの動く城の謎解きページアップ

『ハウルの動く城』の謎解きページをアップしました。

ちなみに、

こちらがハウルの動く城のページ

こちらが今回アップしたハウルの動く城の謎解きページとなります。

もともと、ハウルの動く城というのは、謎が謎を呼ぶ展開というわけではないので、エヴァページのような謎解きはやらないつもりでした。

しかし、自分のホームページにハウル系で検索してくる場合、謎解きを探しているものが多そうだったのと、よく考えてみれば説明が難しいシーンが多いことから、今回、エヴァページ以来の本格的な謎解きページを作りました。

真面目に考えると、結構いろいろ解釈する余地が思いのほか多く、当初考えていたよりずっとボリュームも増え、内容的にも興味深いものになったのではないかと思います。

もちろん、個人的解釈ですので、何かの参考になればというレベルです。

ただし、私が深読みしすぎのせいもあるかもしれませんが、謎解きページがあれほどのボリュームになったのは、やはり、映画に不明な点が多いせいかな?と思ってしまいました。

ソフィーの魔力を曖昧にしたのは作品テーマ上必須だったとは思いますし、ハウルの契約系の話も、イメージ優先ということでギリギリ許されるとは思うのですが、ソフィーが城をどうしようとしたのかについては、どう考えても説明不足ではないかと・・

話のメインではないので、気にしなければ気にならないのですが(私も映画見たとき気にならなかったが、今考えると、よくわかってなかったと思います)、気になる人は気になるでしょう。

人によって評価がわれるのは、そのへんが原因かもしれません。

作品のメインではないところで評価落とすのもつまらないので、次回作は、そのへんは考えてもらえたらなーと思います。(エヴァのように謎の展開をウリにするなら別ですが・・)

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December 04, 2005

もものけ姫vsエヴァンゲリオン

本日、もののけ姫vsエヴァンゲリオンというテーマで、宮崎駿監督と庵野監督の発言集をアップしました。リンク:もののけ姫vsエヴァンゲリオン

2人の出会いの頃(ナウシカ)から、千と千尋の頃までを含みます。(約17年・・)

もちろん、メインはもののけ姫とエヴァンゲリオンの2作品が映画公開された97年の夏となります。

当時は、宮崎駿監督の厳しいコメント(3分しか観てない・・とか)や、庵野監督の宮崎監督及び作品批判が目立っていた感がありましたが、長い目で見てみると、とても深い絆で結ばれているというか、宮崎監督が本当に庵野監督のことを気にかけている様子がありありと感じ取れます。

その意味で、以前アップした富野監督によるエヴァ批判とは随分ちがうものです。

また、最初は、「宮崎さんとまた仕事をしていたい」、と言っていた新入りの庵野監督が、エヴァで成功し、ジブリの後継者として、「僕を欲しいでしょうね、宮さんは」と偉く(?)なっていく姿も読み取れて、面白いものです。

それに対して宮崎監督の作品が「もののけ姫」以降、気合が戻ってきたのは、やはり、弟子にはまだまだ負けられん!という気持ちからでしょう。

今回は基本的に発言集という形でまとめましたが、別途、作品論というレベルで比較したいと思います。(それは、マンガ版ナウシカとエヴァンゲリオンの比較になると思いますが)

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November 23, 2005

「ハウルの動く城」DVDの1/24特典について

ハウルの動く城のDVDがようやく発売されました。

私は「1/24second」特典同梱版を買いました。

これは、映画『ハウルの動く城』の実際に上映されたフィルムを1コマ、24分の1秒分を、透明キューブの中に密封したものです。(サイズ:高さ65mm×幅55mm×奥行16mm)。

映画のどのシーンがあたるかは、運になりますので、期待と不安が入り混じった気持ちで、とても楽しみに待っていました。

結果はこれです。

1-24-3

ハウルがいないのが残念ですが、皆で食事でにぎやかそうだし、私の好きなマルクルも写っているので、個人的には結構うれしかったです。

まあ、おばあさん二人という問題もありますが・・せめてソフィーが若い表情だったらなぁ・・。あと、荒地の魔女はいなくてもよかったんだけどなぁ・・。

さて、その後、あるショップのある人の好意(??子供だっこしてたからかな?店員さんありがとう!!)により、もう1個、なぜかもらえました。

それはこれです。

1-24-2

これはとりあえずハウルが大きく入っており、先ほどのマルクルとあわせて、私的には満足でした。

しかし、ここでふと気になりました。他の人はどんなシーンを持っているのだろう?

運が悪ければ、もしかして荒地の魔女の顔のアップだけとかいう人もいるのだろうか?逆に人気のカットはどんなのかな?

そう思って、YAHOOオークションを見てみると・・

発売後数日なのに膨大な出品がされていました。

ぱらぱらと見ていると・・・・・ものによっては「2万円以上」のものもあります!

感心しながら、見ていると・・・・・

なんと!私の持っているのと全く(?)同じのが出品されていました。(マルクルとおばあさん2人のやつ)。

価格を見てみると・・・「1円」!!!

なんだこの値付けは!と思いながらいろいろ見たところ、結局、1万円以上の値がつくものは、全て金髪のハウルのアップ。

黒髪のハウルのいいカットで2~3千円。

それ以外はゴミのような値段のようでした。(例外として若いソフィーのアップは1万円いく場合もあり)

なんでみんな、そこまで金髪のハウル(美しい版)が好きなのか?黒髪でも他のキャラでも味があっていいではないか?

ソフィー「あたしはそれはそれできれいだと思うけど?」

ハウル「もう終わりだ・・美しくなかったら生きていても仕方がない・・」

ソフィー「もう、ハウルなんか好きにすればいい!!私なんか美しかったことなんか一度もないわ!」

と、ソフィーと一緒に絶叫したい気分でした。

まあ、それはともかく、ハウルのDVDを見ていると、映画館の大画面とはまた異なる良さがあり、資料も豊富なので、私もまたハウルページのコンテンツをいろいろ追加していこうと考えています。

もし、まだハウルのDVDを買っていない方がいたら、単体の安いハウルを買って、1/24版のフィルム特典は、別途オークションなどで買う手もあります。

ただし、金髪の美しいハウルのアップは1万円以上はしますので、そのへんは、好みと財布のバランスをどうとるかというところでしょうか?

なお、1/24のセットは、店によっては終了していたり、出品者によっては値を上げていたりするようです。amazonでは今のところまだあるようですが。

もしなくなっていて、かつフィルムが欲しければ、やはりオークションという手がお薦めです。

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September 29, 2005

ハウルの真実

ハウルのDVDが発売されるということもあり、今回はハウルについて書きます。

ハウルの動く城は、普通に見てしまうと、普通のいい話に見えます。

しかし、他の宮崎作品同様、実際は、はるかに深みがあり、難しい物語です。

なぜ、宮崎監督は「ハウルの動く城」にひかれたのか?

映画の原作となった一巻「魔法使いハウルと火の悪魔」を見ているだけだと、理由はよくわかりません。

しかし、二巻「アブダラと空飛ぶ絨毯」を読むと、この物語が非常に特殊な構造になっていることに気づきます。

第一巻と第二巻が同じような構造を持っているのです。

そして、第二巻では、他人に無理やり悪事を強制させられる3人の男が登場します。

そのうち、2人は、他人のせいとは言いながらも、悪事を働いたことについて、実は自分でもそこに楽しみを見出していたことを告白します。

ハスラエル「この何ヶ月かは、それ以前の数百年をあわせたより、はるかに面白かった。ダルゼルが俺に悪の楽しさを教えたのだ」

兵士「正直に言うと、おれはインガリーをあちこちさまようのを楽しむようになった。悪い奴でいるのも楽しかったんだよ。」

ところが、もうひとりの人物、つまり、ハウルだけは、そのような告白を行いません。彼はただ弁解だけします。

ハウル「ぼくのせいじゃない!国王に命じられたんだ!」

本当でしょうか?

他の2人が、強制的に悪事を働かせられることに面白さを感じていたと言っている以上、ハウルも、本当は、魔法を使って戦争を支援するのに楽しみを見出していたと考えるほうが筋が通っているでしょう。

実際、それをほのめかす以下のようなセリフがあります。

ハウル「確かにぼくが思いつきさえすれば、国王に考え直すように言うこともできたはず。」

映画版では、原作にはないシーンとして、戦闘兵器としてのハウルが登場します。彼は、国王のためにいやいや働かされていたのでしょうか?もちろん、基本的にはそうでしょう。

しかし、同時に、戦争で街を破壊することに楽しみも見出していたのではないでしょうか?

サリマン「お母様に、そなたの正体を見せてあげよう」

化け物になるハウル

ソフィー「ハウル、だめ!わなよ!」

(以上、映画版)

ハウルの気持ちは明言されていませんが、彼は、戦争を起こし、戦闘機を撃墜し、街を破壊することに楽しみを見出してたはずなのです。

それは、原作2巻での悪事を働く人物たちの告白からも類推できますが、何よりも、宮崎監督の作品全てに共通するテーマでもあります。

なぜ、宮崎監督の作品には常に戦争シーンが登場するのか?なぜ、原作にはない爆撃シーンを映画には加わったのか?

崎監実は、こういう趣味をやっていくっていうのは、人にはとても言えないことですけれども・・頭の中で、無数の空中戦をやり、無数の海戦をやっているんです。」
「だから、いったいどれほどの数の航空母艦や、どれほどの航空船隊や、どれほどの数の飛行機や、どれほどの数の
その飛行機のための工場なんかを、いろいろと頭の中で練り上げたかわからないんです。」
「「ホントは、いつもこれだけをやっていられると楽しいんですけれど、これはまったくの趣味ですからね(笑い)。」
(雑想ノートより)」

つまり、戦闘を楽しんでいるハウルは、戦闘を楽しんでいる宮崎監督そのものです。

ハウルが、いやいやながら戦闘をしている顔をしながら、実は楽しんでいる面があるように、宮崎監督にとって、戦闘シーンを挿入することは、多くの映画において楽しみとなっています。

一方、宮崎監督のプロの作家としてのスタンスは、あくまでも登場人物が浄化されていく姿です。(詳細は宮崎アニメページの宮崎監督論や、ハウルの動く城論(殺戮兵器が恋をするまで)を参照ください)

悪の道に走っているキャラ達が、純粋な主人公にふれ、次々と変わっていく・・

これらをあわせて考えると、なぜ、原作にはない戦闘シーンが映画に加わったのかが、明確になります。

まず、宮崎監督は、戦闘を楽しみながらも、それを隠すハウルに、自分に近いものを感じたのでしょう。

しかし、一方では、宮崎監督のプロの作家としてのスタンスは、登場人物の浄化です。

そこで、原作第二巻でハウルが隠している戦争の楽しみを、宮崎監督自身が個人的に楽しめる戦闘シーン(ファンタジックな第一次世界大戦風)にかきかえ、第一巻が原作であるはずの映画版にあえて挿入したのです。

こうするにとによって、戦争を行うハウルが浄化され、化け物の姿から脱するというストーリー展開が可能となります。

つまり、

①原作のハウルの深層心理(命令されているといいながら戦争を楽しんでいるはず)

②宮崎監督の個人的楽しみ(戦闘シーンへのこだわり)

③宮崎監督のプロとしての浄化ストーリー(悪事を働くキャラが心変わりする)

が見事にひとつにつながるわけです。

まさに、すべてがうまくいく、「ハッピーエンドってわけね」(by映画版サリマン)です。

冒頭にあげた鈴木プロデューサーの言葉と異なり、宮崎監督が「ハウルの動く城」にひかれたのは、単に動く城のイメージが気に入ったからという問題ではなく、原作に存在する、悪事や戦争を楽しむ人々と、自分の戦争趣味と、プロの作家としての浄化ストーリーが、見事に一致する物語であることに気づいたからでしょう。

*今回の論点は、また別途整理して宮崎アニメページのハウルのページにのせるようにします。

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July 14, 2005

ハウルの動く城の映画と小説の違いについて

今さらですが、ハウルの動く城の原作である「魔法使いハウルと火の悪魔」を読み終えました。前にもちょっとは読んでいたのですが、まともに読んだのは今回が初めてです。

詳細は、宮崎アニメのホームページの方で書こうと思いますので、とりあえず、気づいた点を簡単に書きます。

小説版を、宮崎駿監督はどう変えたのかというところですが・・

1.敵がいなくなった・・・荒地の魔女が、原作では最後まで敵(といっても火の悪魔にあやつられている)なのですが、映画では、途中からは、いいおばあちゃんになっています。
何でこれが最も大きな違いかというと、悪人を出しても浄化させるというのが、宮崎監督の最大のポリシーだからです。
原作では最後のクライマックスまで引きずる敵を、映画ではあっさりといいおばあちゃんに変えてしまうところが、宮崎駿監督の作家性でしょう。

2.戦争と兵器の導入・・映画では、かなり強く戦争シーンと兵器としてのハウルが描かれていましたが、そのへんは一切原作ではありませんでした。

以上2点は、宮崎駿監督の特質を非常に強く表現しています。
このへんの詳細は、以前書いたハウル論 殺人兵器が恋をするまでをごらんください。これを書いたときは、原作小説はちょっと見ただけだったので、ちょっと修正した方がいいのですが、主旨は変わっていません。

それから、原作と映画では異なる点が多数あります。ソフィーに妹が2人いる点、サリマンが男である点、犬やカカシの話など・・

しかし、そのへんは、本質的な違いや、宮崎監督の作家性というよりは、物語を短い時間でわかりやすく表現するために変えたということでしょう。

むしろ、重要なのは、映画だけでは話に理解できない部分があるのではないか?というところです。
映画見たのはもう随分前なので、あまり覚えていないのですが、火の悪魔カルシファーと、彗星の子供を捕まえる話と、ハウルの契約関係の部分が、映画見たときはよくわかっていなかったような気がしました。
当時は、あまり気にならなかったのですが、原作読んで、初めて十分に理解できたような気が・・

ハウルの映画の感想のひとつに、話がよくわからなかったという声があったと思うのですが、そのへんに起因するのかもしれません。
このへんも、ホームページの方で整理したいと思います。

さて、小説版であった話で、映画では削られた魅力的な話もいろいろあります。
前のブログでも書いた呪文の話もそうですが、荒地の魔女が、2人の人間をごちゃまぜにくっつけたり、首をとったり、頭蓋骨を売り払ったりする話は、全てなくなっています。
宮崎作品の方向性とは違うからでしょう。
とても面白い話なのですが・・

それから、何といっても、ハウルが実は現代人で、テレビゲーム持ってたりする点。これは小説でも曖昧に描かれていますが、間違いないでしょう。
イギリスのファンタジーには非常に根強い伝統があって、主人公はあくまでも現代人であり、何かの機会に、あっちの国に行ってしまうわけです。
不思議の国のアリスにしろ、今度映画やるらしいナルニア国物語にしろ、ハリー・ポッターにしろ、そうです。
ハウルも、そういう伝統の一人なんだと思います。

日本のロールプレイングゲームは、このへんの伝統を何も知らないので、ドラクエにしろ、ファイナルファンタジーにしろ、ずっとあっちの国の話で、つまり架空の話なのです。

イギリスのファンタジー小説というのは、あくまでも、現代の人間が、何かのはずみに向こうの世界に行ってしまうというところに面白みのひとつがあります。
ロールプレイングゲームでいうと、アメリカ製ですが、世界最大のシリーズのひとつである「ウルティマ」なんかが、やはりイギリス・ファンタジー世界の伝統をついでいます。

宮崎アニメで言うと、「千と千尋の神隠し」が、まさに、その伝統のうえに作られていたと思うのですが、なぜか、ハウルでは原作のそのような部分をとってしまったのは、宮崎監督がTVゲームを嫌いなことも関係しているのかもしれません。

いずれにせよ、第二巻の「アブダラと空飛ぶ絨毯」まで読んでから、ホームページに、小説と映画の関係をまとめたいと思います。
同じように、「未来少年コナン」や「シュナの旅」も、原作と比較し、宮崎駿監督が何をどう変えたかを検証することで、宮崎監督の特質が一層明確にできると思います。

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July 11, 2005

魔法使いハウルの呪文から日産カルロス・ゴーン改革の真実へ

カルロス・ゴーンが日産を改革するさいに、あまり頭は使わなかっただろうという主旨なのですが、話の順序として、宮崎駿監督「ハウルの動く城」からはじめます。

現在、「ハウルの動く城」の原作小説「魔法使いハウルと火の悪魔」を読んでいるのですが、映画にはない、面白い話がありました。
魔法の勉強のためにハウルが弟子に残した手紙です。


「さあ、流れ星を捕まえてこい。
マンダラゲの根っこをはらませろ、
俺に話してくれ、
過去の歳月の居場所を、
誰が悪魔のひづめを割いたかを。

俺に教えてくれ、
どうしたら人魚の歌が聞こえるかを、
嫉妬のとげより身を守るにはどうするかを。

そして見つけろ。
どんな風が吹いたら、正直者に役立つのかを。

-------------------------

これについて解釈しなさい。続きを自分で書いてみよう!」


さて、皆さん、頭の体操だと思って考えてみてください。
既に本を読まれた方は、どう解釈しましたか?

私は、一瞬、「意味不明・・解釈しようなし。」と思って放棄しかけましたが、
結局、それ以上読むのを中断し、30分ほど考えました。

その結果、大体わかりました。といっても、まだ小説は半分ぐらいしか読んでないので、
えらそうなことは言えませんが・・

①全て、擬人化している。流れ星を捕まえるとか、マンダラゲをはらませろとか、過去の居場所とか、
星のような鉱物、マンダラゲのような植物、過去のような時間まで、人間のように扱っている。

②悪魔のひづめ、人魚の歌など、想像上の生き物も、現実の存在として扱っている。

③嫉妬のとげというように、感情も動物扱いされている(おそらく植物のとげではなく、もっと動くものでしょう)

以上より、鉱物、植物、時間、空想、感情などが、全て生き物として扱われていることがわかります。

さらに、
・流れ星-マンダラゲの根というように天地の対立
・悪魔のひづめ-人魚の歌というように美醜の対立
・嫉妬-正直者の対立というように道徳の対立

が加わっています。

さて、こうしてみると、不思議なことに一点かけていることがわかります。
「過去の歳月の居場所」という言葉に対立すべきものがないのです。

そう、「未来」です。

となると、どんな風が吹いたら、正直者に役立つかといえば、
「ウソ(もしくは不正直者)」を「未来」に吹き飛ばす「風」でしょう。

ここまで考えたうえで、本を少し読み進めると、実はこの手紙はハウルのものではなく、
ハウルにのろいをかけようとした「荒地の魔女」からのものであることがわかりました。

ハウルは、そのことに気づかず、この続きを確認しようと未来に渡り、そこで
荒地の魔女の呪いを受けてしまいます。

私が読んだのはまだここまでなのですが、これで一層理解できました。

未来に吹き飛ばされる不正直者とは、ハウルのことを指していたのです。

かつて、ハウルに裏切られた思いがある荒地の魔女は、不正直者を未来に行かせることで呪いをかけるために、この呪文を送り込んだのです。
ですから、もし、ハウルがもっと注意深く呪文を見ていれば、魔女の策略を見抜き、未来には行かなかったでしょう。

つまり、謎解きをかねた、とても巧妙な呪文だったのです。


さて、以上の話から何を言いたいのかといいますと、頭の使い方には2種類あって、ひとつは、今回のように、混乱したデータの中から、パターンを見抜いて、本質的な問題を探る働きです。
今回、最初見たときに、意味不明だと思ってあきらめずに、解釈し通したときの頭の働きがまさにそれでした。
これは、頭を使います。頭の使い方Aパターンと呼びましょう。

もうひとつの頭の使い方は、上記のように見出されたパターンを、さらに他の場面に適用する能力です。もし、第二問が出たら、すぐに前と同じパターンが使えないか試すことでしょう。こういうのを、頭の使い方Bパターンと呼びましょう。

前にこのブログで書いたように、学校のテスト勉強というものは、ひたすらBパターンです。ですから、成績がよくなるほど、頭を使わないという現象が発生します。逆にいうと、頭をまじめに使っていたら、テスト時間内には問題を回答しきれないでしょう。

もちろん、パターンをわかっていても、適用にはそれなりの苦労と技術が必要ですが・・頭というよりは、体力に近いような気がします・・

以上から本題ですが、カルロス・ゴーンは日産改革をするさいに、頭をつかったでしょうか?
私は、あまり使わなかったと思います。

たとえば日産関連の冒頭には以下のように書いてあります(カルロス・ゴーン「ルネッサンス」より)。

「なぜか私は、「ここには前も来た事がある。」という思いにとらわれたのである。」
「問題は数え上げたらきりがないほど山積みされていた。しかし、いずれも私にとっては馴染み深い問題だった。」
「規模は小さかったとはいえ、どれもこれまでやってきたことだ。もちろん、だからといって、それで難しい仕事に立ち向かう重圧が和らぐわけではなかったが。」

そして、このことは、逆にいうと、何故日産の再生がテーマなのに、書物の半分以上が、自分の生い立ちから日産にくるまでの話で占められているかも明らかにします。
別に、彼は自分の生い立ちを知ってほしいわけでも、若いときの自慢話をしたいわけでもなく、純粋に、日産について語るより、それ以前にやってきたことを書いたほうが、日産問題の特質を伝えられると思ったのでしょう。

序文に書いてあるように、「これまで私が下してきた決断の理由と根拠をぜひとも理解してもらいたいと思ったのである。」

つまり、日産改革の本質は、日産ではないのです。
問題の解き方で苦労したのは、あくまでもっと若いときの話で、これは、頭の使い方でいうAパターンです。
日産でやったことは、その適用であって、これは頭の使い方でいうBパターンです。

最近、企業では、どこも自分達で考えるより、「ベスト・プラクティス」なる他社事例をまず調査するところから始めます。そして、自分達とどこが違うのかを見極め、あてはめていこうとします。

しかし、それは、頭をBパターンで使うことでしかありません。もしかすると、ハウルの問題のように、一見複雑でもAパターンで考えてみれば30分でとけるのかもしれません。

あるコンサルの話で感銘うけたのですが、その人は、依頼をうけた場合、まずは何も調べずに、自分の頭で徹底的に考え抜くそうです。そして、自分の頭ではもう浮かばなくなってから、他社事例や業界事例を調査するそうです。
なぜなら、他社事例を調査することはいつでもできるけど、自分の頭でその問題について白紙で考えることは、ただ一回しかできない貴重な体験になるからです。他社事例を聞いたり、関係者にヒアリングすると、そっちの情報量の方がはるかにすごいため、圧倒され、自分で考える力が出てこなくなってしまうとのことでした。

さて、カルロス・ゴーンに再び戻りましょう。
彼が、白紙から考えて様々な解法を身につけたのは、Aパターンでした。日産前です。
日産でやったのは、全てもう解法をしっているものの適用です。Bパターンです。

ところが、日本のビジネス評論家や日産についての書籍は、このことがわかっておらず、カルロス・ゴーンが日産をどう変えたのかをテーマにしてしまいます。
しかし、彼が日産でやったことは、あくまでも結果論であり、現象面です。
他社や、他のビジネスマン、管理職が手本にするべきではないと思います。日産の社長やるなら別ですが・・

むしろ、日本のビジネスマンや管理職にとって重要なのは、カルロス・ゴーンが、それらの解法を身につけた過程の方です。
たとえば、若干26歳で、わずか2年で工場長をまかされるに至ったとき、彼が、最初の学習として行ったことは何だったのか?

話が長くなるので、例として、時間を限定し、彼が、入社後半年の見習い研修のさいに学んだことは何だったのか?

・マネージメントと現場のギャップによる沈滞した労働環境
・現場の知識や教育への渇望

おそらく、全ての日本の会社員にとって学ぶべきことは、まずはそちらであり、中小企業にも参考になるし、大企業にもできていないことでしょう。

彼の本はベスト・セラーになりましたが、彼の業績が日産の問題として語られている限り、カルロス・ゴーンについても、日産についてもわかっていないといってしまっていいと思います。

カルロス・ゴーンが日産で何をやったかについて理解しようとするさいに、日産という会社の存在を思い出すのは、彼の書籍の構成に従い、最後にちょっとというぐらいになったとき、ようやく日本人のカルロス・ゴーン理解は妥当なものとなったといえましょうし、その頃には、日本の会社も続々と立ち直るでしょう。

ということで、カルロス・ゴーンの研究を不定期連載しようと思いますが、彼のフランス工場長時代のデータが不足していますねー。自伝に書いてある以上に、もうちょっと調査したいところですが・・

(ちなみに、いつもアナハイム社の話題ばかりだったのに、いきなり日産という実在企業について真面目に書こうと思ったのは、私が、公私ともに、日産と無関係なので、しがらみなく(?)想像できるからです。その分、間違いも多いかもしれませんが・・もっとも、今までのカルロス・ゴーン本よりは、不遜ながら、まともなことが書けると思います)

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July 10, 2005

ロボットアニメの意義1

このホームページも、エヴァンゲリオン、イデオン、ガンダム、ボトムズ、宮崎アニメのページと作成しており、質量ともにばらつきは大きいものの、どれもとりあえず最低限のレベルにはなってきたと思っています。

そこで、こういう作品名を並べて考えてみると・・なんか、どれも、おおまかに言うと似ている話ですねー。

1.人類の進化(もしくは変質)に関係がある。
・進化レベルも形態も様々ですが、どれも、人類史的な作品ですね。(宮崎作品はマンガの風の谷のナウシカだけですが・・)。
(a)変化の契機
イデとの出会い、人類補完計画(ゼーレ)、ワイズマン(?)、宇宙への進出(?)、墓の番人(?)などなど・・

(B)変化の度合い
遺伝子操作、生命体としてのやり直し、ニュータイプ、神の後継者、などなど・・

(C)変化の意義
環境破壊の中で生き抜く、環境変化に合わせて生き抜く、エゴを消滅させる、生まれる前に還る(?)、みんなでひとつになる(?)などなど・・

2.戦いに大きな役割がある。
(A)防衛戦争
異星人との戦い、謎の生物との戦いなどなど・・

(B)権力闘争
独立戦争、理由もわからない戦争などなど・・

3.巨大ロボット(?)みたいなものがでてくる。
(A)意識の集合体として
イデオン、エヴァ

(B)神として
巨神兵、エヴァ

(C)単なる兵器として
(最初の)ガンダム、ボトムズ

さて、他にも、登場人物レベルで比較したり、パイロットの精神に注目したりすると、いろいろ一致したり、分類できたりする点もありそうですが、とりあえず今回はここでやめておきます。

さて逆に、テーマとして異なる点をいくつかあげてみます。

富野作品(とくにガンダム)・・個人と組織の問題、少年から大人への成長

宮崎作品(とくにマンガ版ナウシカ)・・生態系含めた生命への関心、見た人も登場人物も変化していくような浄化作用のある物語へのこだわり

庵野作品(とくにエヴァンゲリオン)・・先行アニメや特撮へのこだわり、自己不安(といっては失礼か?)内面へのこだわり

高橋作品(とくにボトムズ)・・純愛、特殊な環境設定の人間への関心(?これは違うか。考え直します)

こうしてみると、どの作品も、人類進化や神の問題を扱っているという共通項があります。
それでいながら、他方では、個別テーマとして、製作者自らが深い関心を持っている、アニメではない現実(現代社会)のテーマが組合わさっています・

共通項である人類進化や神の問題というのは、昔であれば、宗教が説明していたジャンルだと思うのですが、すごく人間にとって基本的なテーマで、どんな民族にも神話はありますし、本当は誰でも最も関心ある領域です。
そもそも人間とは何なのだろう・・どうなっていくんだろう・・という。

しかし、考えて解決を見るものでもありませんので、物語の背景程度の扱いとなります。ただ、どの作品もなんらかの形で遺伝子の問題を組み込んでいるのは、現代的なアプローチだと思います。

個別テーマは、製作者自身が現代社会の中で問題としている点なのですが、それらは、一般人から見てもやはり共通の問題ですので、深く描かれていれば、感銘を受けることになります。

さて、このように見てみると、ロボットアニメというのは、世界観を提示したり、考えたりする題材を与え、現実の問題への疑問も含み、かつ、エンターテイメント作品であるということで、古い意味での「文学」や「神話」、「伝説」、「昔話」などが担っていた役割を、そのまま引き継いでいるような気がします。

中世のキリスト教で言う、「黄金伝説」をはじめとする伝承や伝説、昔話。
日本で言うと、柳田國男の分類でいえば、「伝説」と「昔話」。

数千年以上に渡って人間にはそのようなものが常に必要でした。
エンターテイメントでありながら、世界と人間の意義と、自分の現実の悩みを映し出すような作品群。

ロボットアニメというのは、産業構造と組合わされた一時的な姿だと思いますが、似たような役割の物語は数千年以上前から必要であったし、今後も、ロボットアニメがなくなったとしても、同じ役割の物語は存在し続けるでしょう。

一方、それに比較すると、いわゆる「現代文学」が、どれほど根が浅い存在であるかわかろうというものです。
日本における歴史はたかだか100年ちょっと。

私は、文学というものは、おそらく産業レベルでは、いつまでも続かないと考えています。一部の愛好家の世界では残るでしょうが・・
実際、文学というものはすでになくなっているといった方がいい気がします。芥川賞作家は毎年生まれますが・・

少なくとも、社会的に何か影響があったかもしれないのは、三島由紀夫ぐらいが最後ではないでしょうか?(「作家」という言葉が、特殊な畏敬の念を含んでいたのは・・)

大江健三郎はノーベル文学賞もとったし、私もとても好きな時もありましたが、社会に何か影響があったことは、ないのではないでしょうか?(60年代~70年代などはあったのかも知れませんが)

文学が世間に何のインパクトも持ち得なくなったのは、いろいろな理由があると思います。

しかし、あまり誰も指摘していないけど本質的な話のひとつとして、単純に、能力のあるヒトが文学を目指さなくなったという事態もあると思います。

明治時代は、頭のよいヒトは、官僚か文学者にでもなるしかなかったため、国民のうち文科系で最も創造的で優秀なヒトが作家になっていたと思います。また、官僚も現実面で優秀なヒトが集まっていたでしょう。

しかし、20世紀後半の高度経済成長期には、優秀なヒトの頭脳は、基本的に企業に流れたと思います。
そして、ここ最近は、創作系のヒトはゲームやアニメにも流れているでしょう。
まあ、乱暴な議論ですが、選択肢が増えた結論として、文学に頭脳が集中していた時代はかなり遠くなってしまったとはいえると思います。

なお、同じことは官僚にも言えると思います。

かりに、いつの時代にも頭が良いヒトが同じ割合で存在するとすると、その人たちがどのジャンルに分布するかというのは、時代によって異なるはずです。

明治時代は、官僚系と文学系に集中していたのだと思います。

ロボットアニメを論じるつもりが、いつの間にか話がずれて文学批判になってしまいました。

何で自分は、ロボットアニメの評論・分析というマイナーな趣味ばかりやって、文学評論という、もっと世間体がよく(?)、賞もあるような方向を目指さないのだろうという個人的な問題意識が出てしまいました。

実際、小説読んで、評論書いたり、分析したり、他のヒトの評論や分析を読んだりしたくなったことがあるヒトは、ほとんどいないのではないでしょうか?
(個人的には、三島由紀夫の最後の4部作および、ウンベルト・エーコの作品については、真面目に評論もしくは分析をしたいという気が今でも時々起きますが)

問題産業とはいえ、アニメ作っているヒトの方が、「子供向けにこういうの作ってていいのか」とか、「こういうメッセージを伝えたい」とか「自分達の仕事の意義は?」とか考えている分、まだ何か考えている雰囲気を感じるというか・・

それに比べると、小説は自己満足と売名の度合いが高いというか・・まあ、個人仕事だから当たり前ですね。

キャラクター商品で売れるものでもないし・・

個人で作って、個人名で売るしかないのだから、苦しみの度合いも大きいでしょうね。売れなければ自己満足しかないし・・

アニメやゲーム製作のように会社単位で収益ベースで作るものと、個人ベースで知名度で作るものとでは、同じヒトが作ったとしても、全く別な作品が生まれるのかもしれません。

なんだか芥川賞批判(文学批判)する気もなくなってきて、意味不明な結論になってしまいましたが、今後、ロボットアニメの意義や問題点などを、不定期に書こうと思っています。

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July 01, 2005

ハウルの大サーカス行ってきました(+改造案)

以前ブログに書いたハウルの(動かない)城に続き、今回、同じスタッフによるハウルの大サーカスに行ってきました。
汐留にあったお城は、どうのこうのいって無料だし、立地も良いので、あの辺に行ったついでに入る分には、結構楽しめました。
しかし、今回は、あまりついでに見るものもない場所だし、駅から遠いし値段は1000円だし・・で、期待と不安が入り混じったかたちだったのですが・・

結果は・・

うーん。どうでしょうかねー。基本的には、汐留のハウルの城と同じようなノリなのですが、値段と立地を考えると・・また汐留で無料だったら素直に楽しめたかもしれませんが・・

ちなみにハウルはこんな感じです。「幻想的でいい!」と思ったヒトは、是非行きましょう。「うーん・・」と思ったヒトは、以下の文を読んでから行きましょう(?)。独特の雰囲気はあるのですが、似てるかというと・・?
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さて、初めてのヒトが行くと、おそらく、全般にチャチな気がするのではないでしょうか?
とくに、ジブリ美術館と比較した場合。
同行者が

、「宮崎監督はハウルの大サーカスには来ていないのではないか?」

といっていましたが、ホームページの日誌を見ても、確かに、宮崎監督自身が何かやったり、そもそも、見に来たようす自体ありません。
もし、本人が多少なりとも関わっていたら、ジブリ美術館や愛知万博のサツキとメイの家の製作から考えて、はるかにこだわりが感じられるものになったのではないでしょうか?価格もあがったかもしれませんが・・

価格について言うと、今回の1000円という価格は、映画「ハウルの動く城」の半額以上であり、かつ、数倍出せばディズニーランド行けてしまう金額でもあります。しかも、何かのついでに行く場所ではありませんし・・(東京現代美術館のルオー展見に来たヒトなら別).

とはいっても、私は、ノリは汐留でわかっていたため、上記のような点は、実はそれほど不満ではありませんでした。
では、何が不満だったのか・・

①そもそも、展示数自体が少ない気がしました。

あれなら、汐留のハウルの城も、そのまま持ってきて隣に置いておくぐらいしたら良かったのではないでしょうか?
人気コーナーの、ドア開けると景色変わるやつもあったし
→実は、またやりたかった・・

②なぜ「ハウルの動く城」で「サーカス」なのか?
汐留は、ハウルの城に入れるというのがウリでしたが、今回、サーカスをやらせる意図は?

もっとも、サーカスとの結びつき自体を批判する気は全くなく、アイデア的には好きです。
ただ、展示の1フロアを丸ごとサーカス映画の紹介に使い、しかも紹介されている映画は、

「天井桟敷の人々」
「道」
「チャップリンのサーカス」

名画には違いないし、私も大好きな映画ですが、どれも白黒映画ばかりです。
日によっては上映会もやるようですが・・

このテーマでやる以上は、もうひとつ深く、サーカス(もしくはサーカス映画)とハウルとの関連を掘り下げて欲しかった気がします。

ただ単に並べて展示するだけであれば、いっそ、ハウルの動く城のモデルになったアルザス・ロレーヌ地方(でしたっけ?)の風景ビデオでも流してくれた方が、一般には楽しめたでしょう。

③画集がなかった。
実は、私は、宣伝で使われているシャガール風のハウルの一連の絵が結構好きで、ちょっと欲しかったのです。
おみやげにはなく、がっかりしました。

さて、良かった点も書きましょう。
①大道芸人が面白かった。とくに、最初に出てきた巨大なヒトは、見たことない種類の大道芸でした。
いきなり走ったり、壁にしがみついたり、奇声を発して驚かせてくれました。
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②汐留にはいなかった、若いソフィーもいた。
もっとも、似てる度では老婆バージョンの方がかなりまさっていた。
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③最後のサーカスシーンで、皆動いた。あれで動かなかったら、暴動が起きたかもしれないが、動いてくれて、お互い良かった。
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さて、最後に、何故ハウルで何故サーカスなのか、再度考えます。
おそらく、企画者がサーカスという連想に行ったのは、
・ハウルの城の音楽に哀愁がある。
・キャラが個性派ぞろい。
・古いヨーロッパが舞台

という3点からきていると思われます。

そして、その連想から、
「天井桟敷の人々」、「道」、「ライムライト」のような、古い(白黒の)哀愁ある大道芸人系の映画を放映するとともに、フランスの本物の大道芸人を呼んだのだと思います。

では、なぜ、映画の大道芸人に哀愁があるのか?
それは、大道芸が、いつまでもできるものではなく、どこかで年齢の限界がきたり、失敗したり、人気がなくなったりという瞬間を、いつも想像させるからではないでしょうか?

たとえば「道」のザンパノが、鎖を切れなくなってくる描写や、ライムライトなどが、この路線だと思います。

もうひとつ、大道芸人に哀愁があるのは、それが、世間一般とは異なるマイノリティな人々を、見世物として、象徴しているからではないでしょうか?
その意味だと、併置すべき映画は、昔のフランス名画ではなく、むしろ「エレファント・マン」だったかもしれません。
もしくは「エル・トポ」とか・・

そして、この路線の方が、「ハウルの動く城」という奇妙な集団の哀愁に近いことは間違いないでしょう。
あの集団は、たしかに映画においては、「ハッピーエンド」だけど、いつまでもあのままではいられない感じも濃厚にします。
国家権力から迫害されているマイノリティの集団として・・

それは、とくにハウルの化け物性によく出ていると思います。
彼らは、日常生活を営むことはできない集団なのです。いつまでもハッピーエンドが続くものではないことは、全ての登場人物もわかっている(観客もわかっている)ような気がします。

となると、ハウルの動く城の大サーカスは以下のようなプログラムにするべきでした。

①冒頭の、入場前の巨大な大道芸人はそのまま残す。彼の化け物性は、テーマに沿っている。

②映画は、昔の名画を放映するのではなく、「エレファント・マン」や「エル・トポ」にする。

③1フロアーを戦争の間にする。映画にあったように、真っ暗闇にして、燃える家だけ映像表現し、爆音を大音声で再現する。空中には、化け物のハウルが飛び交う。

④人形は現在のままで良いが、ハウルに関しては、リアルな化け物ハウルと、リアルな美青年ハウルを追加し、入り口と出口に配置する。

⑤ラストは、現在同様、人形の気楽なサーカスを配置。こうすることで、いかに今の平和が暫定的なものか感じられ、哀愁ただようとともに、明るさに救われる面もある。

ウーム。これは結構奥が深い展示になるのではないでしょうか?是非行ってみたいものです。
カルトな展示会になってしまうかもしれませんが、何か学べる場になる気がします(私だけか?)

何なら私も協力するので、是非、今からでもテーマ変更を検討してほしいところです。
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逆に、ここまでやる気がないのなら、サーカスというテーマ設定自体をやめ、
汐留の城をもっと本格的に作り直すとか、映画をやめて、アルザス・ロレーヌ地方の映像を映すとか、あるいは、ジブリのスタッフのセル画とか並べるとかして、純粋に映画の世界を追体験できるものにした方が良いと思います。

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May 25, 2005

人間的なものと異質なもの

昔、SFを読んでてつまらなく思ったのは、遠くの時代の、異なる世界の話であるにも関わらず、登場キャラは、結局全員、現代人に理解可能なキャラなことです。
ファンタジーでも同じですが、登場人物は皆人格があって、いろいろ自分のロジックで考えて、動いて、要するに、人間と同じ思考回路を持っているのです。代表的なのはスターウォーズですが、宇宙人の姿は様々だけど、考えていることは人間のバリエーションというか・・
この路線をより徹底させるとスタートレックになり、宇宙人も、神みたいなのも、現代世界のいろいろな問題を考えるための仮の記号みたいな存在になります。時に、絶体絶命におちいったピカード艦長が、どんな相手であれ口で説得しようとするとき、思わず笑ってしまう場合もあります。(スタートレック世界では、もちろん成功する)
反対に、本当は異質なのだろうけど、身近にいるもの、例えば、昆虫とか、花とかを擬人化する方法もあります。
イソップ物語とかディズニーアニメのように。
しかし、異質なものを、異質なまま描く作品は、あまりありません。
SFだと、有名なレムの「ソラリスの陽の下に」を読んだとき、こういうのが、本当に異質なものとのファースト・コンタクトだと思いました。
ウルトラマンの例でいうと、敵には2種類あって、宇宙人か怪獣です。宇宙人は、結局人間と同じロジックでしかなくて(移住しようとか、征服しようとか)、怪獣は動物と同じ扱いです。珍しく異質なものといえるのは、ブルトンみたいな存在でしょう。
アニメでいうと、宮崎作品では、意図的にそういうものを表現しようとしている気もします。トトロも若干そうですが、なんといっても、もののけ姫のシシ神でしょう。
逃げるでも戦うでもなく、損得でもなく、何考えているか不明だけど、こちらをじっと面白そうに見ているような・・

ロボットアニメにおいては、イデオンに出てくるイデが、ほぼ異質なものに相当します。それを、人間のロジックで理解しようとしたことが、登場人物の失敗だったと考えて書いたのが、私の「イデオン論」です。
こうしてみると、本当に、人間のロジックと違うものを見たとき、ひとは、それを、生き物というよりは、「場」として考えるのかもしれません。「ソラリス」の海や、「イデオン」のイデのように・・(イデが場(認識の場)であるというのは、作中表現ではなく富野語録に属しますが・・)
では、さきほどとは反対に、世界のどこにでも人間と同じロジックを見るのではなく、反対に、人間の中にも異質なものを探そうとする作品はあるでしょうか?
もしかすると、エヴァンゲリオンにおける、ロボットだと思っていたエヴァがその本質を示し始めるときや、シンジが精神世界に下降して様々なイメージにつつまれるときは、そのような瞬間なのかもしれません。
いままで、理解できていると思っていたものが、崩れていく瞬間・・
もっとも、エヴァンゲリオンも、最後はなんとなく理解できるようになりますが・・

以下、また別途続く。

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May 08, 2005

富野監督×高橋良輔監督対談

ガンダムやイデオンの富野監督と、ボトムズやダグラムの高橋監督の対談が、今月いっぱい無料で公開されています。(なんと45分!!)。高橋監督はホスト役なので、話題はほとんど富野監督作品です。印象深い会話はいろいろあるのですが、ひとつは、富野監督が、「司馬遼太郎みたくなりたかった」といい「あと黒澤明みたく」と続ける点。司馬遼太郎、黒澤明と言えば、宮崎駿監督がやはり崇拝し、2人と対談をしていた点を思い出します。
富野監督と宮崎監督は同年齢。2人が、作品を作るときに考えていた事はかなり共通していて、①先達としての手塚治虫を超えること、②司馬遼太郎のように社会を描くこと、③黒澤明のように映画をとること、と続くわけです。
富野作品と宮崎作品が、社会の全体像を描くことに固執する原動力のひとつとして、司馬作品の重要性に改めて気づきました。もっと世代が下がって、例えば庵野監督作品になると、司馬作品への憧れは全く(100%)無いでしょう。
それにしても、富野作品と宮崎作品は実は似ています。どちらも、とにかくヨーロッパ貴族の生活に憧れを持ち、舞踏会のシーンや、お金持ちの生活、お姫様というイメージ群と、貧乏でふらふらした立場の主人公という対比が軸となります。そして、2人の源流をたどっていくと、とりあえず「アルプスの少女ハイジ」で一緒に仕事をしていて、やはりこの構図に出会います。もっとも、この構図は単に日本の敗戦後の欧米へのあこがれを示すだけかもしれませんが。
もうひとつ上の世代の手塚作品になると、この構図はまた変わってきて、日本人の主人公というのが、もっと素直にでてきます。つくづく、作品というものは、作者の育った環境や、発表した時期に合わせて、変化するものなので、作品分析をする場合には、その辺の視点も必要だと思います。

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May 01, 2005

風の谷のナウシカページ作成しました

ようやく、風の谷のナウシカのページを作成しました(宮崎アニメページの中)。現在のところ、まず、漫画版についての評論みたいなもの(しかも5部構成のうちの序章と一章のみ)をアップしただけですが・・

内容が深いので、分析するのも大変です。

宮崎監督が、庵野監督のエヴァンゲリオンの映画を見て、「中身が何も無いことを正直に出していてえらい」みたくほめていて、庵野監督は複雑そうな顔していましたが、その時に宮崎監督が考えていた中身がある話というのは、ナウシカのことでしょうか?それとも、もののけ姫でしょうか?

それにしても、漫画版のナウシカの持つ作品世界の豊かさはすごいと思います。
ガイナックスの山賀さんが、「交換すればいい。庵野がナウシカ2をやって、宮崎さんがエヴァンゲリオン2をやる」と冗談半分に言っていましたが、是非見てみたい、本質ついた冗談だと思います。

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April 18, 2005

ガンダムページ作成及びハウルの(動かない)城入ってきました

ガンダムのページを作成しました。まだ内容はわずかなものですが・・
なぜ、今さらガンダムページかというと、Zガンダムの映画公開に向けて、多少なりとも盛り上げようという気持ちでした。
もっとも、書いてあるコンテンツ読むと、ガンダムの悪口ばかり書いているようにも見えてしまいますが・・

さて、話は変わりますが、先日、汐留にある日テレわきのハウルの動く城に行ってきました。
本物のハウルの動く城に入れる!というのが宣伝文句なのですが、期待しすぎるとかなりがっかりします。
ちなみに、2回行ったのですが、1回目は平日行ったらガラガラ、2回目は土曜日に行ったら50メートル以上(100メートル以上?)行列で30分待ちでした。

かなりチャチななかにも、面白かったのが、映画にもあった、ドアを開けるといろいろな世界に通じるドア。いろいろ試したかったのですが、あそこだけは常に列になっているので、遠慮して毎回一回だけです。

あと、カルシファーが本物そっくりなのがよかったのですが、できれば、ホログラフを使ってやってほしかった!昔、セガのゲーム(ゲームセンター)で、一度だけ見たのが、ホログラフを使った対戦格闘もの。「特許出願中」と大きく書いてありましたが、2度と見ることはありませんでした・・。いよいよSF映画の世界が近づくか、という気がしたのですが、ゲームそのものがあまりにつまらなかったためでしょうか?あの技術は是非今後もいろいろ使ってほしいものです。

さて、ハウルに話を戻すと、次の標的はハウルの大サーカス
これは、スタッフは汐留のスタッフと同じということなので、期待というよりは、むしろ不安が先行してしまうところです(?)。

なお、せっかくだからいくつか写真をのせますが、ハウルがお世辞にも似ていない点、ソフィーがおばあさんバージョンしかいなかった点など、できれば改善を望みます。
HAULU
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April 02, 2005

ハウルの動く城について(殺戮兵器が恋をするまで)

ブログでの最初の投稿として、「ハウルの動く城」を中心とした宮崎アニメの作品分析を書きます。
テーマは、「宮崎アニメの歴史において、どのようにして殺戮兵器ハウルがキスをなしとげたか?」です。
今後は、ホームページの方も作り、宮崎アニメについてもいろいろ考察していきたいと思います。

さて、「ハウルの動く城」で、宮崎駿監督は、原作小説にいろいろな変更を加えました。

大きな変更のひとつは、ハウルを兵器として明確に描き、戦争描写を加えた点。
もうひとつは、あれほど避けていたキスシーンを加えたことです。

なぜ、宮崎監督は戦争シーンとキスシーンを加えたのか。
これを理解するには、実は、宮崎アニメ全般の分析が必要なのです。

ここでは、まず、宮崎アニメの本質的な特徴が何であるかを考え、
次に、宮崎アニメがどんどん変化していく流れを追い、
最後に、結論として、ハウルの動く城で戦争シーンとキスシーンが加わった理由を
まとめます。

1.宮崎アニメの本質的な特徴
宮崎アニメ独自の特徴は、3つの点から成り立っています。
職業作家として目指しているスタンスと、自分の個人的な興味と、自分でも無意識に表現しているものとです。

[一つ目の点:職業アニメ作家としてのスタンスとしての「解放感」]

「僕は漫画映画というものは、見終わったときに解放された気分になってね。作品に出てくる人間たちも解放されて終わるべきだという気持ちがある。」(アニメージュ文庫「また会えたね」より引用。)

この過程を、宮崎監督は「浄化」と呼びます。
敵だと思っていた人物が、主人公に影響されて、どんどん味方に変わっていくのです。
(「未来少年コナン」のダイス、モンスリー、「天空の城ラピュタ」のドーラから、
「千と千尋」の銭婆、「ハウル」の荒地の魔女まで)。
「コナン」で最後まで悪役だったレプカでさえ、浄化される寸前だったといいます。
作中の人物達の心が解放されていくのを見て、観客の心も解放された気になります。

宮崎監督が重視する「解放感」は、しがらみのない外部からの来訪者による、
囚われた人物の文字通りの「解放」というストーリーでも表現されますし(「未来少年コナン」のラナ、
「カリオストロの城」のクラリスから「千と千尋」のハク、「ハウルの動く城」のハウルまで)、
後先を考えないで決断する楽天的主人公達でも示されます。

また、映像表現で言うと、空中を飛ぶときのシーンも、まさに観客に「解放感」を感じさせます。
(「千と千尋」のハクと千、「ハウル」のハウルとソフィーなど、他にも多数)

以上、制約から解放される人物や情景を描くことで、視聴者の心を解放し、
応援しようというのが、宮崎監督の、映画作成におけるスタンスです。

[二つ目の点:監督の意識的な好みとしての「兵器への愛着」]

監督の心を捉えて放さないものに、ギガント、ラムダ等の兵器があります。
「魔女の宅急便」を受けたのは、飛行船を描けるという思いだったし、
「ハウルの動く城」では戦争シーンが重要な役割をにないます。
「紅の豚」については、

「子供たちではなく、自分のための映画をつくってしまった」

と悔やんだそうです。

また、宮崎監督は、いろいろな兵器の活躍を説明する漫画を何冊も描いています。

なお、映画の悪役が欲しがっていたのも(「未来少年コナン」のレプカ、「天空の城ラピュタ」のムスカ、
「さらば愛しきルパン」のニセルパンなど)
、ヒロインの女の子ではなくて、本当はいつも機械(殺戮兵器等)だったことにも注意してください。

[三つ目の点:監督の無意識的な思いが反映された「異形のものと仲の良い少女」]

宮崎監督の女性表現は特徴的です。
いろいろあるのですが、例えば・・

・親がいないこと(とくに母親がいなかったり、いても冷たかったりします。)
・成人女性が傷をおうこと(クシャナ、エボシ、モンスリー)

これらは、宮崎監督の子供時代より、母親が大病だったことからきているようです。

しかし、今回特に注目したい点は、宮崎監督が、自身の容姿について
過度に自信が無いことです。(例えば、自分を豚で表現するなど)

自分自身の容姿についての自信の無さは、「異形のものと仲の良い少女」というテーマを生み出しました。(トトロとサツキやメイ、オームとナウシカ、ポルコ・ロッソとフィオなど)

そして、この「異形のものと仲の良い少女」というテーマは、先ほどあげた「兵器への愛着」というテーマと交じり合い、「巨大な力(兵器)の鍵を握る少女」という像を生み出しました。

ラナから千やソフィーに至るまで、女性は、常に自分以上の力(場合によっては世界を滅ぼすほどの力)の管理者でした。

2. 宮崎アニメが変化する過程
今までは、宮崎アニメ全般に共通する本質的な要素を考えてきました。
この章では、逆に、宮崎アニメ作品が、作品ごとにどんどん変化していく過程に注目してみます。
時期ごとに、必ずしも明確に区分できるわけではありませんが、おおまかにいうと、4つの時期にわかれます。

先ほど見た宮崎アニメの3要素のうち、1番目の浄化作用による「解放感」と2番目にあげた
「兵器への愛着」は、本来両立しません。
なぜなら、殺戮兵器は、その性質上、解放しようがないからです。

<1978年~1980年 破壊される兵器の時代>
悪役ですら浄化され、解放されていく宮崎作品において、兵器だけが唯一取り残されました。
(初期作品におけるギガントやアルバトロスは、悪役の道具として使われ、破壊されます)

しかし、宮崎監督の兵器への情熱はとても深いものです。

「一番自己犠牲的で、一番高潔で、一番無垢なんですよね。
もっとも破壊的な力をもったものがそうなんですから」
「機械というものに霊的なものが宿るんだということもありうるのではないか」
「その機械やいきものが本当にものをかたり始めたら」
(徳間書店「出発点」より引用)

このような視点を持つ宮崎監督にとって、兵器が、ただ悪人に利用され、燃え上がる展開は耐えられるものではありませんでした。

<1980年~1986年 兵器が顔を持った時代>
「さらば愛しきルパンよ」や「天空の城ラピュタ」に登場するロボットのラムダは、顔を持つようになり、
少女に従う点で、宮崎監督の兵器への熱い思いを実現するという、重要な転換を果した兵器でした。

小鳥を肩に乗せ、ラピュタを侵入者から守り続けるラムダの哀れな表情を思い出してください。
また、戦闘兵器を平和のために役立てようという小山田マキによって、兵器は初めて殺戮以外の可能性を持つことができたのです。

なお、ここで、少女(小山田マキ)と異形のもの(ラムダ)との交わりが、「強大な力(殺戮兵器)を制御する悩み」
という新たなテーマを生み出したことにも注意してください。

<1982年~1996年 兵器が無垢な魂を獲得した時代>
映画では「となりのトトロ」以降、「殺戮兵器」は影をひそめました。
ところが、連載が始まっていた漫画版「ナウシカ」で、遥かに強大に力を増していたのです。
同時に、この時期は、「雑想ノート」で、ひたすら空想上の兵器を描き続けた時期でもあります。

つまり、映画では兵器が出てこなくなったのですが、その分、いくつもの漫画で、兵器は多数描かれ続けました。

さて、漫画版ナウシカの巨神兵は、無垢な兵器です。
そして、ナウシカを「マーマー」と呼び、役立つことをしたいと願います。
ナウシカは、彼を「無垢」と名づけます。

ついに兵器は、先ほどあげたインタビューで宮崎監督が語っていたような「無垢な魂」を獲得したのです。

圧倒的に強力な兵器が、無垢な魂を持つようになると、重要なのは、もはや敵ではありません。
無垢で巨大な力をどう導くか、という点に、話のポイントは移ってきます。

つまり、少女と、強力で無垢な兵器が精神的に結びつくストーリーが明確になると、悪役がつけいる隙はなくなり、
悪役そのものが存在意義を失うことになったのです。

そしてそれは同時に、初期宮崎作品の主人公であった、コナンやパズーのような、素朴な少年像の終焉でもありました。
なぜなら、兵器は、無垢で献身的で、しかも強力であり、少女との精神的な結びつきも強いのです。
役割はだぶっており、もはや、少年が活躍する場はなくなったのでした。

<1997年~2005年 兵器が人間と融合した時代>
13年続いた漫画版ナウシカが終わり、映画に全力が捧げられるようになった「もののけ姫」からは、
戦闘によるヴァイオレンスシーンが宮崎アニメに戻ってきます。

そして、「もののけ姫」では、兵器の圧倒的な破壊力は、アシタカの腕というかたちで、初めて人間と結合します。
主人公の容姿がりりしくなり、少年というより美青年に近づいたのも、兵器と融合した影響でしょう。
宮崎監督は、「もののけ姫」の真のテーマは、アシタカが如何に自分の衝動を制御できるかということだと説明していました。

続く「千と千尋の神隠し」では、戦闘兵器は、目的を見失って利用される美声年ハクとして登場します。
彼は、少女に導かれることで自分を取り戻そうとする点で、これまでの宮崎アニメにおける兵器の後継者です。
映画は、ハクが自立しようというところで終わります。
とうとう、兵器は、魂を獲得するのみならず、自立への意思を持ったのです。

そして、「ハウルの動く城」が製作されます。
ハウルは、魂を悪魔に渡した強力な戦闘兵器であり、権力争いの道具であり、自分を開放してくれる女性を待っている存在でもあります。
ここでも、衝動の制御が大きなテーマであることは、化け物に変身するハウルを見せることで明示されています。

サリマン「あの子はとても危険です。心をなくしたのに、力がありすぎるのです」

ソフィー「心がないですって。でも、あの人はまっすぐよ。自由に生きたいだけ」

単なる戦闘兵器か、無垢な精神の体現者か、この会話こそ、宮崎アニメの作品群をつらぬく縦糸であることは、
ここまで読まれた方なら納得されるでしょう。

そして、宮崎アニメ史上初めて、殺戮兵器であったハウルは、権力者からの自立をかちとり、ソフィーとともに旅に出るのです。

3. まとめ~殺戮兵器が恋をするまで~
悪役も、素朴な少年もいなくなった宮崎作品。
戦闘兵器は意識をもち、人と結合しながら、暗い本能を如何にして制御するかという試練の中で、ハウルへと至りました。

権力者に操られる強力な兵器としても、少女に救いを見出す点でも、
宮崎アニメにおける兵器の歴史の発展はハウルという美青年に集約されているのです。

そして、この瞬間は、最初にあげました宮崎監督の本質的な3つの要素である、作家としてのスタンスである「解放感」と、
本人の趣味である「兵器への愛着」と、無意識な思いからきた女性像である「異形のものと仲の良い少女」とが、
前向きに一致した稀有な地点なのです。

だからこそ、あれほど宮崎監督が嫌っていたキスシーンまで取り込み、一方、ハッピーエンドしかありえない宮崎作品の中で、
それでもあえて

「ハッピーエンドというわけね」

という言葉を、入れたくなったのでしょう。

一言でいえば、「ハウルの動く城」までの宮崎アニメの歴史とは、悪役に利用されるだけの「殺戮兵器」が、数十年の歳月をかけて、
暗い衝動を抑えた美青年へと「浄化」され、少女と恋愛をなしとげる過程だったのです。

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