September 27, 2006

ダ・ヴィンチ・コードのページを更新

ひさしぶりに、ダ・ヴィンチ・コードのページを更新しました。

何で今さら、という感じですが、先日、海外旅行(ハワイです。詳細は別途)に行った時に買った、ダ・ヴィンチ・コードのボードゲームが思いのほか面白く、その紹介がメインとなっています。(ダ・ヴィンチ・コードのゲームについて

また、ハワイへの飛行機で、たまたまダ・ヴィンチ・コードの検証番組をやっていたので、その内容も追加しました。

もっとも、旅行終わってから書いたので、どんな内容だったかあまり覚えていないのですが・・

しかし、ダ・ヴィンチ・コード関連の番組みたり、ゲームやったりすると、ヨーロッパに行きたくなります。

私も以前はよく行ったのですが、子供が出来て以来、旅行はせいぜいハワイまでとなりました。(それはそれで、スキルもたまってきたので、そのうち、子連れハワイ旅行のページを作ろうと思います)

ダ・ヴィンチ・コードのページにも書きましたが、ヨーロッパに行きたいときは、ディズニーシーでお茶を濁す昨今です。(ディズニーシーのページでも作ろうかな・・)

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August 01, 2006

ダ・ヴィンチ・コードの映画について

さて、世の中はゲド戦記で盛り上がっている(?)と思うのですが、残念ながら私はまだ見ていません。

今週の終末も忙しいので、見に行けるのは来週以降でしょうか。

今回は、今更といった感じですが、5月にやったダ・ヴィンチ・コードの映画についてです。

感想は先月ダ・ヴィンチ・コードのページにアップしました。興味ある方はダ・ヴィンチ・コードのページを参照ください。

ここでは、今回行った映画館がちょっと面白かったので書きます。

よくあるシネコンなのですが、なかに、プレミア・シアター(みたいな名前)なるものが一室ありました。

若干割高(+500円くらいだったかな?)なので、今まで利用したことはなかったのですが、今回は時間的に丁度よかったので入ってみました。

「ダ・ヴィンチ・コード」上映館の中に、バーみたいなものがあり、そこでは映画にちなんだシネマ・カクテルをいろいろ出していました。

これがそのメニューです。

「マグダラのマリア」、「最後の晩餐」と・・あとなんだったかな?2ヶ月前のことなので忘れてしまいました。写真も小さくてよく読めません。

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私は車で行ったこともあり、ノン・アルコールの「マグダラのマリア」を頼みました。

そのまま映画の座席にカクテルを運び、「マグダラのマリア」を飲みながら映画を楽しみました。

ある意味、ダ・ヴィンチ・コードの真の主役はマグダラのマリアだと思うので、面白い試みだと思いました。

他にも、「最後の晩餐」なども飲みたかったのですが、運転があるので飲めず、残念でした。

今後は、面白そうな映画があるときは、プレミア・シアターを積極的に活用してみようと思います。

(飲み比べられるように、次回からは電車で行きます・・)

Zガンダムの映画(恋人たち)の時には、「フォウ・ムラサメ」などあったのだろうか?とか、
ハウルの動く城に「荒地の魔女」があったら、どんな味だったのだろうか?などとくだらないことを考えました。(実際には、少なくともZガンダムはこの映画館ではやりませんでした・・ハウルはわかりません)

エヴァンゲリオンなんかだと、「アダム」「リリス」「エヴァ」とかあれば、個人的にはとりあえず全部飲んでみたいところです。

もっとも売上重視なら「アスカ」「レイ」といった品揃えなんかになるのかもしれません。

今回、ゲド戦記を上映するようならここで見ようと思ったのですが、ゲド戦記もやらないようです。残念。

とりあえず、ゲド戦記は普通の映画館で見てから、感想書きます。(面白ければホームページも作ります)

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June 17, 2006

正しい解釈について

これまで様々なアニメの解釈を行なってきました。
解釈にもいろいろあって、物語を理解するのに必要と思われる解釈もあれば、理論(フロイトやユングなどの精神分析系、構造分析などの文化人類学系など)を試す実験として行なった解釈もあり、なかには、遊び心だけで作った冗談のような解釈もあります。(例:作品批評の理論について)

解釈のポイントは、とにかく、ある視点でみれば、こういう理屈付けも可能なのではないか?という論理的一貫性です。

なかには、作者ですら絶対に考えてないことが明らかなケースでも、無理やりどこまで解釈可能か試した例もあります。

また、「エヴァンゲリオン」のように、監督自ら、「正解」や「真実」の存在を否定しているケースもあります。

「正解」がないと言われていても、なぜ人は(今回のケースでは私個人ですが)、解釈により論理的整合性を持った「真実」を探ろうとするのでしょうか?

現在公開中の映画「ダ・ヴィンチ・コード」は、典型的な、ひとつの謎の解釈です。(参照:ダ・ヴィンチ・コードのページ

キリストとマグダラのマリアは結婚していたのか?子供はいたのか?秘密結社は存在するのか?レオナルド・ダ・ヴィンチは作品にどういう意図を込めていたのか?そして、ルーヴルで起きた殺人事件の意味は?
これらの謎をすべて結びつけるとどういう解釈が生まれるのかが、作品のポイントとなっています。

それに対し、同じテンプル騎士団を扱ったミステリーである「フーコーの振り子」の著者であるウンベルト・エーコ(もともと記号論の学者です)は、人間の解釈の力そのものに疑問を呈しています。

テンプル騎士団の謎を扱った「フーコーの振り子」といい、黙示録のとおりに連続殺人事件が起こる「薔薇の名前」といい、その真のテーマは、ある事象に対して、無理やり論理的に「正しい」解釈を行なおうとする、人間の思考そのものを批判することを目指しているような気がします。

その意味で、数千年の謎を統一的に解釈しようとするダ・ヴィンチ・コードと、同じようなテーマの解釈を行なう「フーコーの振り子 」とは、同じく「謎」に対する「正しい解釈」をテーマとしながらも、正反対の視点にあるといえるでしょう。

数千年間に起きたAという事件(例:キリストの処刑)、その千年後に起きたBという事件(例:テンプル騎士団の処刑)、現代に起きたCという殺人事件に、論理的整合性を持った解釈を生むことは可能であるが、それが「真実」といえるのかどうか?

推理小説ふうに別な言い方をすると、同じ場所で黙示録に沿っておきたAという殺人事件とBという殺人事件と、Cという殺人事件。この3つは、関係するのかしないのか?(薔薇の名前はこっちの路線)

エーコの著書は、推理小説というジャンルそのものの否定を行ないながら、人間の論理的思考の限界を示しているような気がします。

私は、現実社会の解釈としては、ダ・ヴィンチ・コードのように、謎の一貫性を求めたり、私自身のアニメ解釈のように、作者が否定していてもとにかく一貫した論理性を作ろうとするものよりも、エーコのように、人間の解釈の限界性・・・つまり、いくら正しい解釈を作ろうと、所詮それは事実とは無関係なものでしかない、という認識の方が正しいと思います。

さて、数年前、ニューヨークのテロで、ビルが爆破されました。
あの事件は、どう解釈するのが正しいのでしょうか?

エーコは、ひとつの意見を発表しました。
それは、(よく覚えていないのですが)イスラム社会とキリスト社会の対決という解釈だったと思います。

私はがっかりしました。
あれほど、人間の「解釈」の限界を示し続けていたエーコが、いざ、現実の社会の解釈を行なったとたん、「イスラムVSキリスト教」もしくは「アラブ社会vs西洋文明社会」みたいな、とても多くくりな「解釈」しかできなかったことに、驚かされたのです。

イスラム教徒にしたって、アラブ世界にしたって、様々な人や立場があるだろうに、なぜ、ごく一部の組織の行為を、そこまで広げてひとくくりに解釈してしまえるのだろうか?と思いました。

日本の歴史でいうと、「なぜ日本は戦争したのか」という問いが同じような意味を持っていると思います。

そもそも、開戦当時における、「日本」とは誰なのか?
「日本」が戦争を開始したのか?その時の「日本」とは誰で、どのような「ロジック」で、戦争を開始したのか?

私自身が調べた範囲では、当時、誰ひとり、個人レベルでは、「ロジック」で戦争をやろうとした日本人はいませんでした。やっても負けることは誰でもわかっていました。それが、組織としての動きになった途端に、誰の意思でもない方向に動くことになりました。(戦争の発端参照)

このへんの解釈は、エーコよりも、むしろ、富野アニメの方が優れていると思います。
富野アニメでは、敵との戦いよりも、むしろ、仲間との内輪もめや、ライバル心が多く描かれます。
また、ひとつの国や民族が起こす戦いが、集団的なロジックではなく、個々人の様々な意識(嫉妬や、個人的な欲望や、利害など)の積み重ねにより、結果として、誰も意図していない方向に組織として展開していく様子がよくわかります。

これは、企業などで働いていると、誰でも実感できるのではないでしょうか?
ライバル会社打倒!などと考えている人はわずかで、ほとんどの場合、そこで人々の意思決定の原動力になっているのは、愛社精神などではなく、従業員ひとりひとりの、個人的な利害・損得・出世欲などです。

立派な企業が、時として意味不明な失敗を平気で行なうことの一因も、もしくはひとつの国家が失敗するときの一因も、同じことでしょう。

このように、組織が絡むと、「正しい解釈」は大変難しくなってきます。

「それはね・・でも、お父様のおっしゃりようは理想すぎます。組織そのもののもつ悪癖を知らなすぎます。」(小説版「ガンダムF91」より抜粋)

組織の意思決定をどのように解釈するか?

「組織と個人の軋轢を見上げる少年を通して人の意識の膠着性を見る」・・Zガンダムの企画書より

話かわって、富野アニメでは、常に、組織と個人のせめぎあいがテーマとなるのに、宮崎アニメでは、なぜ、組織はテーマとはならないのでしょうか?

宮崎アニメでは、主人公は、つねに、組織から外れています。
おそらく、宮崎駿監督のお父さんが、日本軍時代、上官に泣かれながらも戦争を拒否し、日本国内で工場長をやり、のうのうと、女遊びをしながら(?)暮らしていったことと関係があるような気がします。

日本国全体が、多数の死者を出しながら戦争の泥沼にはまり込み、地獄のような状態におかれるなかで、さっさとそれを放り出して、やりたいことをやっていた父親。

おそらく、宮崎監督にとって、父親の存在は、「戦争により一丸となった組織」のリアリティのなさを明示するとともに、組織から外れる生き方を示すヒントにもなっていたのではないでしょうか?

さて、話を戻しますが、人間の思考能力には限界があり、個人の集合体としての組織をイメージすることは難しいし、逆に、結果的には、組織としてどういう行動を行なったのかという理解の方が個人に目を向けるより、はるかに意味を持つ面は確かです。(戦争のように)・・・思考の欠陥①

もうひとつの人間の思考能力の特性として、無理やりにでもいくつかの事象に論理的な整合性をつけようという傾向があります。(ダ・ヴィンチ・コードや私のアニメ解釈のように)・・思考の欠陥②

この2つの思考の陥穽を通り抜け、なおかつ、事実の羅列以上に、事象の理解に有意義な貢献をなす理解というものができれば、それが、現状ではもっとも「正しい解釈」に近いのかなーと思いますが・・なかなか難しいですね。

たぶん、人間の思考の根本的な特徴に逆らうことになるのでしょう。

アニメ分析でも企業分析でも、小説や政治の分析でも、なんでもいいから、そういう解釈を見てみたいし、自分でもやってみたいのですが・・

経済学における、個人の欲望を関数化して、その集合体として市場の動きを捉える考え方など、アイデアとしては面白いのですが、あれはあれで現実を捉えるのには難しい方向に突っ走っている気がしますし・・

たぶん、個人に焦点をあてて組織を考えるという点では正しいのですが、無理やりにでも事象をモデル化して考えている点がまずいのかもしれません。(つまり、思考の欠陥①は数式モデルで突破したが、そのぶん、数式モデルで一般化され、思考の欠陥②にずっぽりとはまっているというか)

ロジックで謎を解明する伝統的な「推理小説」というジャンルや、事件の動機を重視する犯罪の「捜査方法」が、エーコが様々な作品を出した80年代から揺らぎ始め、かわりに「FBI心理分析官」や「羊たちの沈黙」のような、動機無しの連続殺人に注目が集まり、「解釈」よりも事実の結びつきの発掘(データマイニング)に焦点が移ったことは、90年代以降、(パソコンの高性能化に伴って)企業のマーケティング手法でデータマイニングが取り入れられていったこととも関係があるようなないような・・
ともかく、「犯罪」や「マーケティング」など現実社会においては、「解釈」では限界がある事象に対し、事実データの結びつきの方が、重要な分析結果をもたらす例がいろいろと登場してきているということでしょう。

ここまで書いていて思ったのですが、これ以上、解釈の理論を「解釈」してみても、あまり進展なさそうなので、今後は時々、アニメなり企業なりの具体例を用いながら、ひとつひとつ丹念に分析しながら、考えてみたいと思います。

(参考)今回取り上げた作品

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April 30, 2006

エヴァンゲリオンとダ・ヴィンチ・コード

ダ・ヴィンチ・コードのページをいくつか更新しました。

どうもダ・ヴィンチ・コードのネタをはじめてからこのブログのアクセスが激減しはじめたのですが(ただ単に更新しないからかな?)、今回はダ・ヴィンチ・コードとエヴァンゲリオンはかなり似た話なのだという話をひとつ。

ダ・ヴィンチ・コードとエヴァンゲリオンは、かなり似ていて、道具立てとしては、ほぼ同じようなものなのです。

エヴァンゲリオンでは、聖杯伝説のうち、ロンギヌスの槍をメインに使っています。聖杯伝説では、通常、槍と聖杯とはセットで登場するものです。ロンギヌスの槍が、処刑後のキリストを刺したもので、その血を受けたのが聖杯ですから。

ダ・ヴィンチ・コードでは、槍よりは聖杯そのものに焦点をあてています。

エヴァンゲリオンでは、秘密結社的存在として、ゼーレが登場します。これは、死海文書とからみ、脚本版ではエッセネ派という言葉も見えます。

ダ・ヴィンチ・コードでは、死海文書ではなく、ほぼ同時期に見つかった、ナグ・ハマディ文書を使っています。秘密結社としては、テンプル騎士団~シオン修道会です。

エヴァンゲリオンでは、アダム・エヴァという旧約聖書の世界をベースに、ロンギヌスの槍をはじめとする新約聖書の世界を組み合わせています。特徴的なのは、通常は意識されないリリスをもってきたところです。

ダ・ヴィンチ・コードでは、新訳聖書ベースの話なのですが、特徴的なのは、マグダラのマリアを前面に持ってきたところです。

つまり、エヴァンゲリオンにしろ、ダ・ヴィンチ・コードにしろ、どちらもキリストの物語と聖杯伝説をベースに、20世紀になって発見された文書、それを信じる秘密結社、宗教の陰で闇に葬られた女性・・といった構成要素で作られています。

ただ、エヴァンゲリオンの方は、それらの整合性よりも、インパクトや印象重視なのに対して(ナグハマディ文書ではなく死海文書を選んだのは、日本語としてそっちの方が語感がかっこいいからでしょう)、ダ・ヴィンチ・コードは、ナグハマディ文書(マリアの福音書など)と秘密結社の流れ(レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」など)を上手く組み合わせることで、「これが真実のキリストだ!」みたいなことを主張することに成功して、世界的な話題となりました。

まあ、個人的には、アスカの名前がマリアだったら、テーマとしてもほとんど同じような気もしてくるので、GAINAXがダ・ヴィンチ・コードを盗作として訴えてみても面白かったと思います。(負けるでしょうが、話題作りとして)

ともかく、ダ・ヴィンチ・コードとエヴァンゲリオンのページの共通コンテンツとして、この二つの作品が、ほぼ同じ道具立てを使いながら、微妙に異なる選択していることで、作品として、どういう違いが生じたのか、簡単な分析をするページを作ってみようかと思います。

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April 15, 2006

ダ・ヴィンチ・コードのページを開設

今回、文学と映画のページというのを作り、今さら、という気もしますが、「ダ・ヴィンチ・コードの謎を解くページ」というのを作りました。

ダ・ヴィンチ・コードについては、既に多数のホームページがあると思いますので、特色としては、自分がヨーロッパに以前行って調べた話と、後は、いろいろな書籍や番組で議論されている内容の整理などやっていこうかと思います。

もっとも、ヨーロッパで調べたと言っても、ダ・ヴィンチ・コードが書かれるよりずっと前のことなので、小説に沿って旅したものではありません。

もともとダ・ヴィンチ・コードで使われているネタそのものは有名なものが多いので、興味があっていろいろ探しにいったものです。

読んでいただければわかるように、どれもお粗末な話ばかりですが・・

まあ、ヨーロッパで、観光旅行ついでに何か調べようという人には、失敗談も役に立つのではないでしょうか。

文学と映画のページは今後もいろいろ追加予定ですが、当面、ヨーロッパの秘教系に関するものを中心に作ろうかと思います。(嫌な言い方をすれば、オカルトともいう)

日本では、そのへんのネタは、人気あるわりには、知識や情報は入手しづらいので・・

アニメでも、エヴァンゲリオンとかエウレカセブンとか、いろいろなものに使われていますし。

それらのアニメに興味を持った方が、自分でヨーロッパに観光旅行行った時に何か探す一助となるようなページを目指したいという気もします。

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September 11, 2005

「ダ・ヴィンチ・コード~真実と虚構の境界線」をみて

以前からダ・ヴィンチ・コードに関する話をまとめたページを作るといっておきながら、まだできていません。

このブログでも何度かダ・ヴィンチ・コードにはふれてきましたが、視点もばらばらなので、もう少し包括的なものにしたいと思います。

さて、ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルでの「ダ・ヴィンチ・コード~真実と虚構の境界線」を見ました。(放送はFOX。本日21時からもやるようです。先月もやったらしいですね。)

まだ前編見ただけなのですが、情報として初めて知ったのは、マグダラのマリアが娼婦と同一視されたのは6世紀以降とのことでした。ヴァチカンの公式見解で両者が分離したのは、20世紀に入ってからだそうです。

ダ・ヴィンチ・コードはいろいろと論点を持つ作品ですが、たとえば、マグダラのマリアの復権という意味だと、ヴァチカンから学者から含めて、同じ方向に動いているような気がします。

しかし、最後の晩餐に描かれているのがマリアであるという点はどうでしょうか?

番組では、一人の研究者を除いて全員が否定していました。

番組で説明はしていなかったのですが、最後の晩餐については、レオナルド・ダ・ヴィンチ自身の製作メモが残っており、本人が、たしかキリストの隣の人間(女性っぽい)について、「男」と明記していたような記憶があります(再確認予定)。

その意味では、キリストの隣の人間がマリアだという考え方は、難しいような気もします。

また、マリアの復権については、基調が揃っているものの、キリストの妻だったかというところまでいくと、今残っている情報からではなんともいえないようです。一般には、あれだけいつも付き従っていたのだから、実質的な妻のようなものであってもおかしくないのですが、キリスト教誕生の前身とも言われているエッセネ派などのように、独身主義の教団もたしかに存在するところが難しいところです。もっとも、エッセネ派は女性は受け入れていなかったかな(?)、ちょっと忘れてしまいました。

最後にキリストの子供がマリアから生まれたという話については、伝説のもととなる南フランスの人々が皆否定しているのが、番組をみていて面白い点でした。

キリストの物語というのは、事実に加えて、大きい点だけでも

・古代地中海の物語(ギリシア圏、エジプト圏ふくむ)

・聖杯の物語(アーサー王やパルジファルなどふくむ)

・南フランスなどの伝説

・古代ユダヤの伝承や教義

などが融合しあい、なかなか分離できないと思います。

約2千年に渡り、いろいろな伝説が加わったり、新たな解釈が生まれていますから、解釈に一致を見るのは難しいでしょう。(ヴァチカンの解釈も変わり続けているし・・)

日本のアニメでさえ、エヴァンゲリオン(ロンギヌスの槍やゼーレ(脚本ではエッセネ派))、ガンダム(マリア崇拝))など、いろいろな作品がベースとして活用していますし。

近いうちに、包括的にこのへんのテーマを扱うページを作りたいと思っています。

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May 11, 2005

ダ・ヴィンチ・コード、ヴァリス、ヨブへの答え

今回は再びダ・ヴィンチ・コードネタです。ダヴィンチコードを読んで、その中に書かれているいろいろな話を、嘘か本当か議論するのも楽しいところですが、目下考えさせられているのは別件です。
例えば、
・推理小説「ダ・ヴィンチ・コード」にも出てくるマグダラのマリアのキリストの妻説
・ディックのSF「ヴァリス」に出てくる、ナグハマディ文書発掘が新たなる啓示であり、知恵(ソフィア)をもたらすという考え方
・ユングの心理分析「ヨブへの答え」に出てくる、人類の集合的無意識が、旧約における横暴な神に耐えかね、自意識を持った神キリストを生み、さらに、20世紀に至って聖母マリアが幻視されはじめ、1950年にヴァチカンにて天のマリアがキリストの公式の妻(母でもある)と認定されたのは、新たなる救世主登場の前段階であるという考え方。(読んだのはずいぶん前なので、間違ってたらすいません)

これらを統合して考えるとどうなるでしょうか?
何を言いたいのかというと、聖母マリアとマグダラのマリアの位置づけなのですが。
キリストの母マリアは実在の人物でしょう。ただし、聖母子像は、たしかにイシスとオシリスの像から来ているのかもしれませんし、その他の生誕にまつわる物語も、他の神話からきているでしょう。
手持ち資料がない状況で書いているので、いきなりルネサンスに飛びますが、ミケランジェロの「最後の審判」に描かれているキリストの横にいる女性は、聖母マリアといわれていましたが、立ち位置としては、横で支え、どっちかどいうと妻を思い起こさせます。のちにヴァチカンで教義化されたという聖母マリアが天においてはキリストの妻でもあるという説の原型は、すでにこの時代にもあったということかもしれません。
また、カトリック圏の人の本など呼んでいると、聖母マリアは天の元后であるともかかれていたり、美の女神としても扱われていたりもします。
このへんは、当然聖書にはない話なので、どっかの神話が結びついたのかもしれません。

しかし、仮に、ナグハマディ文書に価値を認め、そこで、マグダラのマリアをキリストの妻だったと考えるとどうなるのでしょうか?
「最後の審判」のマリアや、天の元后、美の女神としてのマリアは、そして、ヴァチカンが聖母マリアに与えた天におけるキリストの妻としてのマリアは、聖母の方ではなくマグダラの方のマリアとなります。
どこかで、イメージの混合が起きたのか、それとも、全く別の文脈なのかはわかりませんが(ダヴィンチコードのように、ヴァチカンとの対立で抹殺されたという説もあるでしょう)。

それにしても、20世紀は、
・世界各地で聖母マリアの幻視がみられる。
・1950年、聖母マリアが天においてキリストの妻でもあるとヴァチカンが制定
 同時期に、ナグ・ハマディ文書発見。翻訳は60年代以降。
 中には、キリストの妻であるマグダラのマリアが描かれている。
・1970年代(80年代)「レンヌル・シャトーの謎」が出て、マグダラのマリア妻説が有名になる。
・1990年以降、映画などの諸作品で、いっきにマグダラのマリアの復権(?)がはじまる。
映画「キリスト最後の誘惑」、文学「ダヴィンチ・コード」

ちなみに、日本では、Vガンダムでマリア崇拝がでましたが、まあ、これはおいといて、どちらかとエヴァンゲリオンで、エヴァ-リリスという、人類に罪をもたらした女が主役に躍り出る点の方が文脈としては近いかもしれません。
*一部のグノーシス主義においては、エヴァもマグダラのマリアも、人類に真の知恵をもたらす点で、同じように評価されていた。

このような、マリア像のイメージの変化は、何によるものでしょうか。
①女性の権利向上に伴う精神的な流れ(聖母イメージへの押し付けへの反旗)
②ユングが言うように、旧約時代からの集合的無意識における神イメージの変化(ユングによれば、聖母マリアの幻視とヴァチカンでの教義化は救世主の誕生の準備を意味していたはずだが、最近のマグダラのマリアをどう考えるべきか)
③聖母マリアがキリストの妻とまでなったことに異議をとなえるため、ナグハマディ文書を発見させることで、マグダラのマリアの霊が誤解を正そうとした。(冗談ですが、でも、「ヴァリス」のようにナグハマディ文書を新たな啓示と見れば、成り立つ(?))

それはともかく、「最後の審判」でキリストを支える女性のイメージはどこからきたのか(本当に聖母マリアなのか、異教からのイメージか、マグダラのマリアか)、ヴァチカンが聖母マリアを天の妻としたときの見解と、その歴史的背景(数百年前からあるイメージのようです)は、ちょっと調べようかと思います。この2点は結局同じかもしれませんが。

それから、調べようもありませんが、20世紀前半に各地で幻視されたというマリアは、どっちのマリアだったのか。

それはともかく、1950年における聖母マリアの天上での妻というヴァチカン教義の公布と、同時期のナグハマディ文書発見によるマグダラのマリア妻文献の登場。
おそろしいほどの偶然です。(ディックの言うように啓示とみるかどうかはおいといて)

これこそ、ユングの最も簡単で最も難しい理論、「共時性(シンクロニシティ):意味のある偶然の一致」の、最大の例ではないでしょうか?

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May 05, 2005

ダ・ヴィンチ・コードなど

最近話題の「ダ・ヴィンチ・コード」を読んで思ったのですが、ああいうヨーロッパの秘教ものというのは、定期的に話題になるし、需要もあるのかなと。数年前にはエーコの「フーコーの振り子」とかも話題になっていたし。
そこで、自分も、そういう関心に多少なりとも応えるべく(?)近いうちにホームページを立ち上げようかと思います。内容としては、ヨーロッパ旅行における様々な探索(というほどでもない)を中心に、調べた範囲をまとめる感じですね。
例えば、テンプル騎士団の財宝の謎を追って、私は最後の総長ジャック・ド・モレーの火刑場まで行ったのですが、看板一つあるだけでした。「ここで火刑になりました」みたいな・・仕方ないからVサインの写真だけとって帰りました。
「ハリーポッターと賢者の石」にも「フーコーの振り子」にも出てくる、賢者の石を作ったニコラ・フラメルの家(を改造したレストラン)にも行ったのですが、たまたまお休みで、仕方ないからここでもVサインの写真だけとって帰りました。
ギリシアのエレウシス教発祥の地を訪ねた時は、バス間違って終点まで行き、運転手さんにおそわって別の路線まで歩いて、3時間以上かけてようやくついたものの、博物館みたいのはちょうど終了時刻になっていて入れず、しかたないから博物館をバックにVサインの写真をとって帰りました。
なんかVサインの写真とった話ばかりの、しょうもないページになるかもしれませんが、少なくともヨーロッパで直接探索しようという人には、人の失敗談も役に立つでしょう。
アニメ関連で言うと、エヴァンゲリオンで有名なロンギヌスの槍を探してヴァチカンの宝物館に行ったときは、ひどい目にあいました。
ボトムズなんかもヴァチカンネタをいろいろ使っているので、役に立つ話もあるかと思います。

ということで、文学・旅行・秘教・アにめに関心がある人が、その方面のことで知りたいことを調べられる情報をまとめていきたいと思います。(専門家ではないので、探索における失敗談の集積で終わるかもしれませんが・・)

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