作品批評の理論について
先日頂いた、れおさんからのコメントに基づき、私が利用してきた批評理論についてざっとまとめてみます。
そもそも、批評理論を意識的に使おうと思ったのはいつだったでしょうか・・
エヴァのページを作ったとき、「自分はアニメ相手にどこまではまるんだろう・・」などの考えが浮かびました。しかも、監督からは、映画にて現実に帰れメッセージが送られ、一方、苦労して作った解釈も、ビデオ版発売でまた若干内容が変更されていたりということもあり、何のために時間かけて謎解きなんてやってるんだろうと思いました。
その時考えたのが、「いっそ、ありとあらゆる批評・分析理論をエヴァンゲリオンにあてはめてみたらどうだろう?大体、日本の学者は欧米の理論を翻訳するだけで、実際に上手く使っている人など見たことないぞ。自分がここで様々な批評理論の適用例を作れば、後に続く若い人たち(?)にも参考になるだろう。」
というような気持ちで、「エヴァンゲリオンによる批評理論の教科書構想」を考えたのでした。各学説の理論の説明もあわせて書いて、ひととおり読めば、大学で学ぶ人文教養課程以上の批評理論が身につく(?)というものでした。しかも、基礎知識はエヴァンゲリオンというアニメを見ることだけ。
残念ながら力つきてこの構想は実現しなかったのですが、痕跡は私のページのあちこちに残っています。エヴァページのみならず、他のアニメページ全てのコンテンツも使って構想を再現すると・・
1.精神分析
<フロイトの理論の適用> シャア・アズナブルの分析。フロイトの理論を適用することで、シャアの、「ガンダム」「Zガンダム」「逆襲のシャア」の行動に一貫性を持たせると共に、典型的なアニメキャラを、これ以上なく人間的にとらえることに成功した(?)
シャア・アズナブル専用ページのシャア・アズナブル論参照
また、エヴァでもフロイトを引用しているところがあり、「父殺し」「エディプス・コンプレックス」などの論点で書けば、それなりに面白いものが書けるかもしれない。
いや、そもそも、エヴァでフロイトを使うなら、「タナトス」に代表されるような死の理論でしょうか?映画のテーマでもありますし。
そういえば、私も、リビドーとデストルドーを使った文章も書いていました。(ATフィールドの理論ほか)
<ユングの理論の適用>精神分析によるエヴァンゲリオン。ユング理論のエヴァへの適用は2パターン考えていて、ひとつはこの論文のように、人類の精神史と幼児期の精神史を重ね合わせたもの(途中で放棄)。
もうひとつは、使徒がカヲルにまで至る経緯を、ユングの夢や童話の分析における、敵への気持ちを変えることで、実はそれが自分の一面であることに気付くという理論を適用したもの。これは素晴らしい論文になるような気がしていたが、残念ながら未執筆。
<レインの理論の適用>エヴァで引用されているので、これを使うのが本当は素直なんだろうと思いつつ、まだ書いてません。
2.文化人類学
<レヴィ・ストロースの神話分析の適用>これは、エヴァのTV最終回と映画をベースに、理論を忠実に適用したもの。面白みのある分析になったと思っている。ただし、なぜこの理論が成り立つのかは、誰にも不明(レヴィ・ストロース本人にも)。おそらく、民話や神話からアニメ製作まで、人間の想像力には一定のパターンがあるということなのだと思うが・・
<E・リーチの神話分析の適用>これは、エヴァのテーマ理解のために、神話のテーマ理解の手法をあてはめたもの。
<日本の民俗学>手法というほどのものが見当たらず。ネタとしては、柳田國男や南方熊楠などところどころで引用したが・・
3.哲学・・手法というより、世界の解釈ですが・・
<プラトン>これは、ガンダムに使えそうと思いつつ、今のところは以前ブログに書いたシャアとのからみのもの。
<ニーチェ>これは、ボトムズそのもの。ひとことも書いてませんが、ここでのボトムズ批判の根底にあるのはニーチェの理論です。TV版ボトムズにはニーチェの引用もされており、相性もいい。あまりに相性がいいと、理論の説明は不要となります。
また、逆襲のシャアもニーチェを引用しており、相性はいいはず。いずれ書く予定。
ブログで小ネタとして書いたこともあります。
<キルケゴール>エヴァ16話の題名の元ネタ。ただし、あまり面白いものが書ける気がしなかったので、書かなかった。
<マルクス>シャアとの相性が良さそうなので、ときおりブログなどで書きました。いずれ本格的に書く予定。
<ベルクソン>ひとことも書いていませんが、エヴァのメッセージ分析の第四章は、まともにベルクソンの哲学そのものです。もっとも、書いてあるのは、エヴァのセリフと監督の言葉ぐらいですが・・。あまりに相性がいいとこうなります。
<ドゥルーズ>マンガ版ナウシカの解釈には必須だろうと思ったものの、生命論でとまっている。文章も下手なので書き直し予定。現状では、とりあえず、いくつか著作から事例を引用しているレベル。いずれ本格展開する予定。
4.歴史学
<アリエス>よく考えたら読んでないが、「子供の誕生」のコンセプトが面白かったので、真似して、エヴァにいくつか軽く適用。
5.文学
<蓮實重彦(先生)>私は彼のゼミに一時参加していた経緯もあり、若干(結構?)影響受けている。彼の表層批評理論に近いような気がしていたのは、イデの解明。
ただし、軟弱にも、富野監督の発言なども引用し、証拠固めを行っている点、表層批評に徹していない。
6.企業分析 これは、多少なりとも仕事の経験を生かそうとしたもの。批評理論ではないが、今後は増やして生きたい。
ほかにもいろいろあったような気がしますが、ぱっと思い出せるのはこんな感じです。
理論の間接適用まで含めると、もっとも偉いのは、どうのこうのいってもフロイトだと思います。とくに、製作者の深層心理含めての分析となると、強力なツールとなります(話が長くなるのでまた別途)
キャラでは、シャア。彼はプラトンともフロイトともニーチェともマルクスとも相性がよく、シャアによる教科書構想まで考えたほどでした。
いずれ、それぞれの理論の解説も並べ、批評理論の教科書構想を実現させたいなーという気はしています。
また、以前考えたシャアによる教科書構想も、いい加減造り始めようかなーという気もします。
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Comments
デストルドの極限状態、全てが一つになった状態において、シンジとレイは一つになっており、性的な結合を表しています。これは、レイが人類という種の母であることを考えると、母との原初的一体感を表しており、20話における、シンジの授乳シーンと同じ意味を持ちます。つまり、リビドーの現れです。
と、書かれています。これは「デストルドの局限状態、リビドーの現れ」る、という意味でしょうか。もしそうだとすると、
ヒトそれぞれがもつリビドー、デストルドーの境目がATフィールドであるのです。
という記述と齟齬を来していませんか?
Posted by: | July 23, 2006 at 02:01 PM
ATフィールドに関する記述は、まったく支離滅裂です。
ATフィールドをある場所では自我と他我の境界といっておきながらべつの場所ではデストルドーとリビドーの境界といっています。
なんで支離滅裂になってしまったのかというと、デストルドーとリビドーという言葉を同じ次元で理解されているからです。前者は形而上、後者は形而下の言葉です。
つまり「動物」と「パンダ」はどちらがカワイイか?といったようなナンセンスな比較になっているのです。エヴァにおいて「デストルドーが形而下する」といっているのは、「動物」と「パンダ」の例をつかえば、すべての動物が一つになってしまう、あるいはパンダ以外の動物が死に絶えてしまえば「動物」=「パンダ」になり、このふたつの言葉に形而上も形而下も区別はなくなる、ということです。
Posted by: | July 23, 2006 at 02:21 PM
ATフィールドに関する記述は、まったく支離滅裂です。
ATフィールドをある場所では自我と他我の境界といっておきながらべつの場所ではデストルドーとリビドーの境界といっています。
なんで支離滅裂になってしまったのかというと、デストルドーとリビドーという言葉を同じ次元で理解されているからです。前者は形而上、後者は形而下の言葉です。
つまり「動物」と「パンダ」はどちらがカワイイか?といったようなナンセンスな比較になっているのです。エヴァにおいて「デストルドーが形而下する」といっているのは、「動物」と「パンダ」の例をつかえば、すべての動物が一つになってしまう、あるいはパンダ以外の動物が死に絶えてしまえば「動物」=「パンダ」になり、このふたつの言葉に形而上も形而下も区別はなくなる、ということです。
Posted by: | July 23, 2006 at 02:21 PM
ごめんなさい。おなじ文を重複して送信してしまいました。
Posted by: | July 23, 2006 at 02:23 PM
ごめんなさい。おなじ文を重複して送信してしまいました。
Posted by: | July 23, 2006 at 02:23 PM
つまりデストルドーは「動物」としての心の動きでリビドーは「パンダ」としての心の動きです。あるいは「人としてゆるせない」といったときの「人」はデストルドーと同じように形而上にあり、「人とあう」といったときの「人」はリビドーと同じように形而下にあります。同じ言葉でも文脈によって形而上にも形而下にもあるわけで、Yasuakiさんは色々な場面で、この区別をしていません。だから、斜め読みすと脈絡のあるように見える記述でも、ちょっと注意して読むとナンセンスなことが多いのです。
Posted by: | July 23, 2006 at 02:39 PM
つまりデストルドーは「動物」としての心の動きでリビドーは「パンダ」としての心の動きです。あるいは「人としてゆるせない」といったときの「人」はデストルドーと同じように形而上にあり、「人とあう」といったときの「人」はリビドーと同じように形而下にあります。同じ言葉でも文脈によって形而上にも形而下にもあるわけで、Yasuakiさんは色々な場面で、この区別をしていません。だから、斜め読みすと脈絡のあるように見える記述でも、ちょっと注意して読むとナンセンスなことが多いのです。
Posted by: | July 23, 2006 at 02:39 PM
「ボトムズ論」におけるニーチェ理解は、間違っています。Yasuakiさんは、神にかわる価値観、みたいなことを書かれていますが、ニーチェは価値観自体を否定したのです。
Posted by: | July 23, 2006 at 03:24 PM
「レヴィ・ストロースの神話分析」をアニメに適応しているのもおかしな話です。アニメは、映画やドラマと同じように近代的な作劇の理論をもとに作られているから、「構造」をもっていて当然だからです。レヴィ・ストロースの何がすごいのかというと、近代的=西洋的な理論をもっているとは思われていなかった古代の人々や未開の人々の神話や民話にも、一見すると見えにくいけれど分析するとあたかも作劇の理論をもとに作られたかのような「構造」がある、ということを発見をしたからです。
Posted by: | July 23, 2006 at 09:19 PM
Yasuakiさんはレヴィ・ストロース気取りで、アニメをつくるひとやみるひとを古代人や未開人とおなじように扱っています。これは典型的なアニメに対する偏見です。
Posted by: | July 23, 2006 at 09:25 PM
いろいろコメントいただきましたが、私はそうは思いません。たとえば、実際にレヴィ・ストロースの著作を読んだ上でのコメントでしょうか?それならどの著作のどの箇所か、具体的にあげてください。
Posted by: yasuaki | August 02, 2006 at 10:09 PM
そうは思いません
とのことですが、どの部分を否定されているのでしょうか?わたしの主張はレヴィ・ストロースは神話や民話の分析はしているだろうけれど映画、アニメ、演劇といった近代以降につくられたものは分析していない、ということです。つまりレヴィ・ストロースはそんなことは書いていない、と主張しています。なのでどの箇所か、具体的にあげてください、というご質問自体、ナンセンスです。たしかにレヴィ・ストロースの著作(邦訳されているものもある)すべてを検索した上で主張しているのか、と問われれば、なにもいえませんが。
Posted by: | August 04, 2006 at 08:26 PM
フロイトの用語を使ってYasuakiさんが書かれているとことが支離滅裂なのは、フロイトの用語が支離滅裂だからでしょうか。わたしは、そうは思いません。しかし、フロイトが支離滅裂ではないことを、「どの著作のどの箇所か、具体的にあげて」説明することはいくらなんでも無理な相談です。全般的にいってYasuakiさんは、あまりに「具体的に」専門用語を引用してしまう為に、引用元の文献で文脈にそってつかわれているそれらの専門用語を誤用してしまっていることが多いようです。
Posted by: | August 04, 2006 at 11:05 PM
Yasuakiさんの以下の文章は一読して支離滅裂です。
リビドー・・自我境界を形作る力でもある。
デストルドー・・自我境界をなくして原始に帰る力でもある。
(中略)
デストルドの極限状態、全てが一つになった状態において、シンジとレイは一つになっており、性的な結合を表しています。これは、レイが人類という種の母であることを考えると、母との原初的一体感を表しており、20話における、シンジの授乳シーンと同じ意味を持ちます。つまり、リビドーの現れです。
と書かれています。まったく意味不明です。後半を要約すると「デストルドの究極状態でリビドーが現れた」となるでしょう。さらに前半を代入すると「自我境界をなくす力があらわれた究極状態で自我境界を作る力があらわれた」となるでしょう。これ「どっちやねん」状態です。
つまり、「わたしを批評するならフロイトを読め」という以前に、Yasuakiさんの文章自体が支離滅裂なのです。
Posted by: | August 04, 2006 at 11:29 PM
たしかに人の感情には「かなし過ぎておかしくなる」ということもあるでしょう。あるいは「きれいはきたない」風レトリックもありえます。しかし、そんな感情論やレトリックを振りかざしては「評論」にはなりません。
Posted by: | August 04, 2006 at 11:35 PM
くり返しますが、もしYasuakiさん独自の定義、
リビドー・・自我境界を形作る力でもある。
デストルドー・・自我境界をなくして原始に帰る力でもある。
はフロイトのそれとはまったくことなります。『快感原則の彼岸』を読まれることをオススメします。
Posted by: | August 04, 2006 at 11:49 PM
上に投稿したコメント中の1行目の「もし」はミスです。ごめんなさい。なんだか他人のミスを指摘するのは、気が引けます。
それにしてもレヴィ・ストロースの変換公式に関する議論はいくらなんでも滅茶苦茶です。正確な内容は、たとえば以下の文章で読めます。
http://we-by-jiro.net/MEMO/sigfcs/16.txt
Posted by: | August 05, 2006 at 01:44 PM