ニーチェとナチズム、ガンダム、ボトムズ
さて、ブログには面白い機能があり、どんな言葉で検索してたどりついたのかが、ある程度わかります。それで見ていると、予想外な言葉があったりして、「この人ははずしたなー。悪かったなー」とか、「この人にはこのページはぴったりだ」とか思ったりします。
それで見ていると、予想外に多いのが、「レコア」「辱め」というフレーズで、なんでそんなテーマにみんな関心が高いのだろう?何で私のブログに来るんだろう?と思ってgoogle検索したら、5位にこのブログが出てきました(^^)
これじゃこのブログも変態ページの仲間入りだな、と思い、「この問題がどれほど奥が深いものか、誰も気づいていないだろうから、真面目に論じるか」と書こうかと思ったのですが、昨日、日中・日韓問題を書いた後に(って半分はZガンダムの話か)いきなりレコアの辱めを続けるのもどうかと思ったので、今日は国際問題とアニメのかかわりを書きます。もっとも、レコアの辱めの話は相当頭使う話なので、今日は書けないという事情もあります。
さて、今日のテーマはニーチェなのですが、ニーチェは19世紀の哲学者です。
普通、哲学者の考えと言うのは、有名な人であっても、時代に対して、非常に遠回りな影響しか持たないものです。古代ギリシアは別でしょうが・・あとマルクスも別か・・
いきなり脱線しますが、以前アテネに行ったとき、ソクラテスが毒を飲んだ洞窟を探したのですが、わかりませんでした。山はわかるんですが、洞窟がどこだか・・どなたか知ってたらおしえてください。
さて、ニーチェの思想は、ものすごく、いろいろ現世に影響を与えています。
世界的に見て、とくに大きな影響があったのは、ドイツで、彼の思想がいろいろ歪曲され、ナチスの精神的な支柱となります。
では、次に影響が大きかった国はどこかな?と考えると、実は日本ではないかと思います。
なんといっても、ガンダムとボトムズというビックタイトルのロボットアニメに結びついているからです。
経済効果は数百億円という単位ではないでしょう。(一瞬だったエヴァブームが3百億円だったことを考えると・・?)
この2つのアニメは、核心的な部分でニーチェの言葉を使っているところが直接的ですが、それ以上にテーマが同じなのです。
つまり、ヒトがヒトを超えた存在になれるか?というところです。
ニーチェはこの問題を「超人」といいましたが、これがテーマとして、そのまま、ガンダムでいう「ニュータイプ」、ボトムズでいう、「ワイズマン」もしくは「異能者」「生まれながらのパーフェクトソルジャー」であることは一目瞭然でしょう。ニーチェの言葉は、作中にもいろいろ引用されます。
さて、こう考えると、次に考える必要があるのは、ナチズムと、ニュータイプ、ワイズマンの比較を行う必要があるのですが、面白いのは、この「ヒトがヒトを超える」もしくは「人間の革新」という理想主義は、常に、選民思想と結びつくところです。
ナチスにしても、ザビ家にしても同じなのですが、そもそもジオン・ダイクンの思想もそういう面がある気がします。
そもそも、「ヒトがヒトを超える」瞬間、新しいヒト、上位のヒトと、古いヒト、下位のヒトという区別が生まれるわけで、どうしても、差別的なシチュエーションが生まれます。
どうしても、選民思想と結びつきやすいのです。
これを打開するにはどうしたらいいか?
ひとつは、あくまでも、個にこだわるという視点があります。ひとりひとりが、それぞれ、独自の力強さを目指すことにより、集団vs集団という構造を崩すこと。これは、ニーチェの言っていることに近いと思いますし、TV版のボトムズにはこういう雰囲気が濃厚にありました。
昨日書いた日中問題のブログのコメントの会話にあったような、周囲に流されずに自分の価値観を持つとはこういう路線だと思います。
もうひとつのやり方としては、「ヒトがヒトを超える」こと自体が、政治権力の抗争の繰り返しをやめらることにつながらないか模索したり、いっそ全員一気に新たなるステージにあがろうとすること。
これは、どうもシャアの考えの特徴のような気がします。
ということで、ニーチェの思想を受け継ぐものとして、シャアvsキリコという思想的対立が設定できます。
2人の特徴は、いずれも、「ヒトがヒトを超える」ことを目指しながらも、政治権力とは結びつかないことにこだわったことにあるでしょう。
これは、もちろん、ナチズムなど第二次大戦への反省からきていると思います。
ちょっとブログで書くには、話が大きくなってきたので、シャア専用ページとボトムズページの共通コンテンツとして、この問題は再度細かく書きたいと思います。
なお、そのようにロボットアニメを語ることで、通常の評論以上に、歴史や組織、哲学の問題に、深く踏み入ることができるかどうか?というのが裏テーマとなります。
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Tracked on July 16, 2005 at 04:19 PM



Comments
ガンダムにイマイチ乗れなかった理由は、大義の正当化にあると思います。世代差なんでしょうか、僕らはイマイチその手のお題目が信用出来ませんでした。長じて結局はフリーランサーとして生きています。(苦笑)
その点ボトムズはあくまで視点がキリコ個人な点が素敵でした。
ナチに関しては人間持つダークサイドというのでしょうか、それが面白すぎて(オカルトとの関係など)シロートながら長年文献を漁って(ただし日本語)研究しています。ナチ運動のの歴史的な経過を見ていて興味深いのは、エリート思想を教義?に持ちつつも、創始者とその取り巻きは社会の落ちこぼれだった、ということです。つまり、選民思想というのは、終わってる社会不適合者たちのルサンチマン=負のエネルギーだと思うのですが、そのパワーが何かの間違いで社会運動として力を持ち始めると、とたんにオポチュニストで要領の良いテクノクラートが乗っかって来るのですね。金髪碧眼で身長180以上なんて奴は、ハイドリヒくらいしか思いつけませんが、奴はテクノクラートの典型で、古参だったヒムラーやゲッベルスなんて見てくれ的に終わってますから、そのギャップはギャグにしか思えません。が、よく考えるとその異様さに誰も異議を唱えられない怖さがあります。
日本の社会は成功した国家社会主義であると言っている人がいますが、これには激しく同意しています。実際、組織を外から眺めた場合にある、不合理と論理性の無さはファシズムそのものでした。(苦笑)
Posted by: ヤススキイ | June 30, 2005 at 10:12 AM
#終わってる社会不適合者たちのルサンチマン=負のエネルギーだと思うのですが、そのパワーが何かの間違いで社会運動として力を持ち始めると、とたんにオポチュニストで要領の良いテクノクラートが乗っかって来る
…「ガノタの状況論」としてもある程度使えそうだったり?(笑)
ファーストガンダムの印象ですが、「大義の正当化」は中盤以降での軌道修正とも思われ、「子どもに分かりやすくしろ」的圧力の存在などを何となく想像しておりました。(確証なし)
Posted by: ずもっく | June 30, 2005 at 01:51 PM
また、若干ずれた話なのですが、ナチスで不思議だったのは、イタリア人が映画にすると、「愛の嵐」や「地獄に落ちた勇者ども」みたいな、退廃的、耽美的な作品になることです。
男性でも女性でもない?中性的な妖しさも両作品に共通していますし。
ナチスを目の当たりにしたはずの彼らが、ああいう狂気の美学(?)の話を作るのは、何か感じ入るものがあったのでしょうか?
Posted by: yasuaki | June 30, 2005 at 11:21 PM
ナチはスタイリッシュですから、イタリアの映像作家も思想はひとまず脇に置いて、その形式/様式美を評価しているのでしょう。思えば、僕も何も知らない子どもの頃は黒い制服に憧れておりました。(汗)
意味もなく、飛行機で遊説を行ったり、党大会においてサーチライトで光の円柱を演出したりと、ナチの宣伝・演出は画期的で、いまもてはやされている巨大でこけ脅かしなコンセプチュアルアートの基礎を70年前にすでに実現してたことは驚異です。反面、イタリアの政治家や軍はセンスが悪く、ドゥーチェにしても脳が筋肉なバカにしか見えないので、映画人としてはイマイチ題材として採り上げるには抵抗があったのかも知れません。それに、余りに存在が近いことでアラが見えまくったことあるのでしょう。
理論が無いのがファシズムの特徴なので、実態はどっちもどっちなのですが、中身が無くてもそれっぽいエセ理論や形式をデザイン出来たナチが、イタリアのファシストよりも狡猾だったと個人的には思っています。
不思議なのはイタリア人がトコトン武器のデザインがヘタなことです。F-1マシンは綺麗なのに、戦車のデザインは最低です。これも民族性なのでしょうか???
Posted by: ヤススキイ | July 01, 2005 at 01:09 AM
なるほど、そういえば、ナチスのデザイン感覚はいろいろな面で斬新だったんですよね。
映像表現ではレニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」とかもありますし・・そういえば、あのレニさんは、100歳すぎてもダイビングやって新作映画撮って、すごいですね。このまえ、亡くなられたようですが・・
カギ十字も、ユングが、人々の無意識を逆行させるものとして、批判していたし・・何かと話題になる点も多いですね。
そういえば、ドイツのデザインといえば、ちょうど第一次大戦後にバウハウスとかがあるし、ああいう影響かなーと思って今調べたら、バウハウスはナチスの圧力で閉鎖させられていたみたいですね。なかなか複雑だ・・
不思議なのが、今はとにかくデザインといえばイタリアなのですが、あのときはたしかにドイツの方が目立つ点がずっと多いですね。
ああ、そういえば、ヒットラーは画家になりたかったんでしたっけ?あんまりその方面でいい評判聞きませんが、何か関係あるんでしょうかねー。
Posted by: yasuaki | July 01, 2005 at 08:09 AM
ナチスの得意だったものはプロダクトデザインですよね。だから芸術ではないと思うのです。国民芸術というか大政翼賛系のものは、ヒトラーの意向を汲んだ古くさくて陳腐なモノが多かったようです。現在、「メディア・アート」という良くわからない種類の芸術分野がありますが、あれはナチスの直系だと、個人的には理解しております。その最も有名な祭典が毎年夏にリンツで行われる点にも、なにがしかの感慨を覚えます。
機械モノのデザインは、木は見て森は見えないという職人根性爆発なところが好きです。たとえば、タイガー戦車は月産数十台だったそうですが、対するソヴィエトのT-34は月産数千台でしたから、ドイツの製品はマスプロダクション向きではなかったのです。しかし、これを命が掛かってる戦争でやっちまうあたり、気が狂っていて、「他人ごと」になってしまいますが、それ故に「ドイツ製」というキーワードには妙な魅力があるのかも知れません。(汗) 「反」物量とうのでしょうか、、、。
レニは天才でしたが、実質死ぬ直前までパージされていて、フランスの対独協力者、シャネルやコクトーと対照的な人生だったと思います。これもお国柄なのでしょうか? 日本はその点いい加減ですね。
Posted by: ヤススキイ | July 01, 2005 at 12:59 PM
なるほど、確かに、ドイツ製のプロダクトデザインは今でも凄いですね。
ドイツ車にも、あきらかに、ある種の特別なこだわりを感じますね。
以前、ミュンヘンに行ったとき、ドイツ博物館に行ったのですが、あそこは凄かったです。ドイツの技術的なものの集大成みたいな場所で、メッサー・シュミットやらUボートやらまで展示してあったのですが、なんといっても度肝を抜かれたのが炭鉱の再現。
日本だったら、せいぜい20mから30m作ってお茶濁すところですが、一体何百メートルあったのでしょう?時間がないとき間違ってさまよいこんだらアウトです。何のためにここまで気合入れて炭鉱を再現したいのだろう?と、鬼気迫るものを感じました。
なんかよくわからないけど、ドイツ人は凄い!と思いましたが、ドイツ製品にはそういう雰囲気はあると思います。
Posted by: yasuaki | July 01, 2005 at 11:44 PM
あれま、大ドイツ博物館にはそんな凄い展示があったのですか!
僕もミュンヘンへは4年前、友達を訪ねに行ってきましたが、ケッテンクラートとMe262やシュヴィムワーゲン、銀色のF-1グランプリマシンしか記憶にありません。あと、ホールをぶち抜い展示されていた巨大なV2号は圧巻でした。天井にはMe163やV1がつり下げられている異様な空間でしたが、キッチリ鈎十字は外されていましたね。(苦笑)
Posted by: ヤススキイ | July 02, 2005 at 02:29 AM
炭鉱なんで、凄いといっても、暗めなところにひたすら細い道があるだけなんですけどねぇ・・
そんなものを延々と再現しようと思うところが、たしかに「凄い」ですねぇ。
理解不能なレベルでしたが・・
Posted by: yasuaki | July 03, 2005 at 09:46 AM